天正本の北野通夜物語

李章姫さんの論文「天正本『太平記』巻三十八「政道雑談事」の現実認識―巻三十五以降の考察を通して―」(「国際日本学」19)を読みました。李さんは軍記物語講座3『平和の世は来るか』(花鳥社 2019)に精確な3本記事対照表を載せ、その後も着実な太平記論を書き続けています。

天正本は太平記諸本の中で、古態本や流布本とは最も相違の多い、殊に史料を用いた改訂が多い異本です(小学館刊新編日本古典文学全集に所収)。南朝の正統性を認めるのが太平記の古態だとする立場からは、一部古態が窺えるとされてきました。

太平記の中で歴史を展望し、内乱の将来を見通す政治批評として重視されるのが、「雲景未来記」と呼ばれる記事と「北野通夜物語」と呼ばれる記事で、後者は天正本では巻三十八に「政道雑談事」と題して置かれています(通常は巻三十五)。また、善政の重要さを説く遁世者・君臣の道を説く儒教者・因果業報を説く法師の座談を聞く聞き手に、天正本では日野僧正頼意という宮方の人物が設定されています。

李さんは天正本が古態本に比べ、巻三十五以降では記事を簡略化する傾向があることを述べ、その結果、宮方(南朝)の勢いが脆弱化したことが明らかになっていると指摘しました。また巻三十八は、宮方の勢いが大きく後退した時期に当たり、聞き手の宮方の人頼意は、もはや宮方による太平の世の実現はないことを確認して、名ばかりの将来への期待を口にして、去って行くのだと論じています。

すでに半世紀が経つ太平記の諸本論では、個々の諸本の見直しは進みましたが、太平記における古態とは何か、政治勢力と改編作業との関係など、基本的な問題の議論が活発化すべき時期にそろそろさしかかっているのではないでしょうか。