徒然草の視界

中世文学会初日、オンラインによるシンポジウム「徒然草の視界」を視聴しました。会員外も含め370人の参加申し込みがあったそうで、盛会でした。講師は中野貴文・小川剛生・川平敏文、司会は荒木浩という、いま徒然草研究の最前線を走っている人たちです。予め会員全員に資料集が配布され、講師の発表をVTRに収録しておいたのは、事務局の行き届いた準備の結果でした(但し共有画面の文字がぼやけて読みにくい)。

オンラインによるシンポや講演では、発表資料の作り方やプレゼンテーションにも、従来とは異なる工夫が必要だと痛感しました。癖なのか座姿勢がじっとしていない人、語尾を呑んでしまうので声がよく聞き取れない人、モニター画面が横にあるのか視線が落ち着かない人・・・TV中継ならばディレクターが注意したり、ミキサーが調整したりするのでしょうが、当人が気づいて改善しないと視聴者はつらい。

シンポの内容は分かりやすく、面白かった。そして前進性、突破力が感じられて、満足感がありました。中野貴文さんは、随筆だからありのままを書いた、というものではなく、書きたい衝動はあるがそれを容れる型がない、そこで厭世的な教養人を語り手として設定し偽装したのだ、という立場。小川剛生さんは、兼好はあくまで武家側の人、当時の六波羅周辺には在俗同様の活動をしていた遁世聖たちもいて、公・武・僧の交わる場の中に彼はいたのだという立場。川平敏文さんは、徒然草が広く読まれるようになったのは17世紀以降で、兼好の美意識が即中世を代表するとは言えない、という立場。

文学を、もっと「文学」として読むべきだ、とつくづく思います。殊に軍記物語研究ではそういう観点の欠如が長く続き、その弊害に気づいてさえいない。いま平家物語でこんなシンポをやったらどうなるか、と考えても悲観的にならざるを得ません。