神楽歌の秘曲

中本真人さんの「神楽歌の秘曲「宮人」をめぐって」(「中世文学」64号)を読みました。大会発表も聴いたのですが、こうしてまとめられると要点がよく分かります。

神楽歌「宮人」は、楽師の家である多(おおの)氏に伝わる秘曲でしたが、多資忠が堀河天皇に伝え、我が子近忠には伝えぬまま亡くなり、道を惜しんだ天皇が近忠に教えて、ぶじ子孫に伝わった、という説話で有名です。これは一種の芸道説話であり、音楽の才のあった堀河天皇の美談でもあります。平家物語では壇浦合戦後の内侍所都入りにちなんで語られ、若い頃は、さして意味が無い説話のように思いましたが、戦後に正統的王権と秩序が回復していく象徴的説話なのでしょう。楽書類や『古事談』にも載っています。

中本さんは「宮人」は元来、解齋のくつろいだ中で歌われたもので、秘曲ではなかったと考えます。永暦元年(1160)の内侍所御神楽が長久元年(1040)の先例に倣って行われた際に「宮人」が演奏され、多氏の家系の中で伝承者が限定され、しだいに秘曲化していったのだと言っています。そうだとすれば、芸能は結構短い時間で性格が変わるものだな、と思いました。

本誌にはシンポ「なぜ西行なのか」や野口実さんの講演「中世前期、出羽に進出した京・鎌倉武士たち」も載っており、若手の投稿も順調なようです。通常、シンポジウムの再録には司会またはコーディネーターの前置きがついているものですが、本誌今号にはありません。講師3名の思惑はまちまち、こういう時こそ司会のコメントが欲しかったなあと思います。