中世文学会2021秋季発表

午後から、中世文学会の研究発表をオンラインで4本聴きました。久々に中世文学について議論できた、との感想を持ったのは私だけではなかったようです。

黄昱さんの「『徒然草』の読書論」は、『徒然草』13段に見える「灯下読書」は、漢詩に影響され、灯のもとで老荘を読むという兼好のポーズを象徴するものではないかという、分かりやすい論。共有画面のPDFが読みにくかったのは残念でした。和文脈、和歌の検索が不十分、との指摘がありました。

井上翠さんの「『源平盛衰記』の終結部について」は、盛衰記自体の読みが足りないと思います。盛衰記の成立についての視点がないまま、自分の描く物語的脈絡に囚われてしまった。もしや未だに「平家物語の再構成」という目で見ているのではないでしょうね。我田引水のようですが、「源平盛衰記の「時代」」(國學院雑誌H23.6)必読。

児島啓祐さんの「『愚管抄』本文再考」は、本来こういう短時間の口頭発表には不向きな題材かもしれませんが、従来ブラックボックスだった『愚管抄』の伝本研究に正面から取り組んだ結果は、期待を裏切らないものでした。今後の困難も予想されますが、同志と共同プロジェクトを組んで、我々が安心して依拠できる本文を公刊して欲しいものです。歴史叙述の本文流動、後世の書写・校合の態様、知識人たちの交流などの諸問題は、『愚管抄』のみに留まらず他分野にも共通し、大きな視野が開けるでしょう。

田口暢之さん「配所における後鳥羽院詠」は、実情実感の歌とされる作も題詠歌と同様虚構の歌として読むことが可能だが、「遠島百首」の伝本の中には、題詠歌としては解釈しにくい歌がある、と論じます。実体験に基づく表現と虚構とを区別する作業に挑む勇気に感心しましたが、多様な角度から見るとやはり不確実らしく、議論続出でした。