軍記物談話会抄史(7)

発起人世代を第1世代とすれば、私たちが第2世代、その後ほぼ10年の間を置いて第3世代の登場までは、軍記物語は中世文学研究の中核にいた、と言っても間違いではないのではないでしょうか。軍記物談話会の会員は次第に増え、平成に入る頃には120人を超えていました。第1世代から第2世代にかけて、同人会は研究会に、そして第2世代から第3世代以降、徐々に学会規模に近づいたわけです。

それゆえ私たちは、少しずつ運営を透明化していきました。指名制だった委員は逐次入れ替え、さらに選挙制+指名制になりました。中世文学会の昼休みに集まっていた総会は、学会終了後に、やがて夏に独自開催するようにして、会計報告その他も機関誌で公表しました。機関誌の在庫を主とする荷物を置かせて貰う事務局は、駒澤大学から早稲田、國學院國學院栃木短大へと移り、その際、年々増えるバックナンバーを思い切って廉価販売して、段ボール1箇まで減らしました(以後は、永久保存版2冊を残して売り切る部数だけを作る、と申し送ったはずでしたが、いつの間にか大量になっているのは腑に落ちないことです)。会場は昭和62年からずっと、國學院大學の徳江元正さんが引き受けてくれました(休日は暖冷房が入らず、夏冬は辛かったけど)。徳江さんは発起人世代の申し合わせを守り、会議室を開けてくれるだけで、一切口を出しませんでした。

1990(平成2)年、会の名称変更の話が出て、名実ともに研究会になるのをきっかけに、規約を作りました。運営委員を40歳未満、在任10年以内の人に限定したのは、この抄史で述べてきた苦い経験からです。倫理を言っても駄目、制度に予防策を盛り込まなければ、という考えに基づくのですが、当時、それでもボスになりそうな人に自らすり寄るやつはいるよ、と言った仲間の言を、今だに思い出します。