軍記物談話会抄史(4)

混迷の学園紛争から学んだことは、思想はけっきょく、人次第だ、ということでした。もう一つ、どんなコミュニティでも、ボスを発生させるような地盤は予め規制をかけておかなくてはいけないということも。素晴らしい思想を唱える人自身、日常の行動が伴っていなければ、却って思想そのものが蝕まれる―やがて「いちご白書をもう一度」の歌が街に流れ、赤軍の無残な実体が学生運動から目を背けさせました。

私は南町田にある短大に就職しましたが、ブラックな職場で、調査にも出られず、心身共に追い詰められていました。田園都市線沿線に住んだのですが、近くには『太平記』の忠鉢仁さん・後期軍記の和田英道さん・『平治物語』の吉田多津雄さん・『承久記』の村上光徳さんがおり、勝手に軍記村を自称していました。毎月第3日曜には、忠鉢さんの車に私と和田さん・吉田さんのどちらかが乗って行き、麻布学園で例会を開きました。発表者1名で、討論時間はたっぷりありました。

会員は次第に増え、100名を超えました。地方勤務の人も委員に指名したり(無償、旅費なし)、年会費の値上げをしたりもしました。徴収が年度末では機関誌の印刷費支払いに困るというので、2年分前払いをして貰った年がありました。それまで中世文学会2日目の昼休みに総会を開いていましたが、大人数がごっそり別室に集まって、しかも遅刻するのは具合がわるいし、私たちも軍記以外の人と交流したい。総会は学会終了後にし、昭和50年代半ばからは夏に地方例会を開き、後に両者を合併しました。学会会場ではブースを出して機関誌を販売したり(並んだブースの汲古書院社長と会員が仲良くなって、縁ができました)、会費を受け取ったりしました(後に振込制にした)。

思えばこの頃が一番、会に勢いがあったかもしれません。しかし難題がありました・・