軍記物談話会抄史(6)

長電話は全国の発起人世代にもかけられ、不定愁訴ではなく個人攻撃的内容になったようです。電話口で泣かれたり、家族から、あれはどういう人?と訊かれて困った、という話が、私の耳にも入りました。一方、和田英道さんの許には、男性の年長者から運営に関する電話があり、詳しくは聞きませんでしたが、ああいう陰々滅々には参るなあ、とこぼしていました。

見かねた発起人世代の今成元昭さんが、自分も後輩が母校に戻ったので、負担をかけるようなことがあってはいけないから、と音頭を取って話し合いを開き、今後、運営は若い世代に任せようと決めてくれました。今でもその約束を遵守して、若手を応援するために会費は払うが会には出ない、口も出さない、という方がいます。長老たちが会に冷淡なのではなく、関わらない、という形での声援なのです。

当時、和歌史研究会とか、物語研究会(通称モノ研)などが盛んに活動していましたが、和歌史研は私家集大成が完成した時点で新たな入会を断り、やがて閉じられました(著作権保護のためだったそうですが、綺麗な締めくくりでした)。水原一さんや福田晃さんの許には、それぞれ研究会があり、軍記と説話の研究者の多い名古屋には名古屋軍記物語研究会があり、やがて関西軍記物語研究会もできました。個人研究会主宰に失敗した例もまた、耳に入ってきました。私に研究会を開いてくれ、と言う若手もいましたが、勤務と自分の研究だけで精一杯でしたし、漫然と集まる研究会は必ず堕落する、という確信を持っていたので断りました。目的集団を結成できるかどうかが大事、と考えていたのです。

設立25周年記念事業として『軍記物研究文献総目録』作成を提案し、出来たのが昭和61年(発行は62年10月)です。私は鳥取赴任を理由に、運営委員を辞しました。