源平の人々に出会う旅 第44回「鎌倉市・腰越状」

 元暦2年(1185)3月24日、壇浦の合戦で平家の総大将宗盛と子息清宗は捕虜となり、義経は二人を鎌倉へ連行します。ところが頼朝は、捕虜を受け取り、義経は腰越に留めて鎌倉へ入れませんでした。梶原景時の讒言を聞き入れていたからです。

【満福寺】
 覚一本『平家物語』では、頼朝は、「九郎はすすどき(機敏な)男なればこの畳の下よりもはひ出でんずる者なり」と言って、義経に対して異常なほどの警戒心を持っています。遺憾に思った義経は、大江広元宛に書状を記します。有名な腰越状です。覚一本や『吾妻鏡』には、腰越状の全文が載っています。この書状の下書きとされるものが腰越の満福寺に保存されています。

f:id:mamedlit:20200905133724j:plain

 

【弁慶の腰掛石】
 しかしながら、義経の訴えは叶わず、そのまま宗盛父子を連れて都へ戻ることになります。腰越状の下書きは弁慶が記したという伝説があり、境内には硯の水に使ったとする硯の池や、弁慶の手玉石、弁慶の腰掛石などがあります。

f:id:mamedlit:20200905133818j:plain


【小動(こゆるぎ)神社】
 満福寺からほど近い小動岬にある小動神社は、藤戸合戦で有名な佐々木盛綱の創建と伝わります。盛綱が近江国の八王子宮を勧請する際、この場所に来ると、風もないのに松の枝葉が動いたことから、この場所を選んだとされています。

f:id:mamedlit:20200905133902j:plain


〈交通〉
江ノ島電鉄腰越駅
    (伊藤悦子)