コロナな日々の危惧

「さきの大戦」前夜のドキュメントや現代史のコメントを読みながら、岐路での選択ひとつひとつの局面を想像すると、ああこれがもし職場での会議だったら、自分も黙過してしまったかもしれない、と思うことが多々ありました。組織の中での自分の立場、利害、影響力と取れる責任範囲などを考えると、必ずしもベストの選択でなくても、あるいはやや不安のある選択であっても、当事者は十分考えているのだろうから、と口を閉ざす場合があります(現実にそう反論されることもある)。

1回の選択の結果なら未だ軌道修正が利いたとしても、そういう選択が積み重なっていけば、もはや取り返しのつかない方向が決まってしまいます。自分が持ち場を離れた後で、その組織の行く先を見て、やっぱり、と思った例も少なくありませんでしたが、どれも「さきの大戦」ほどの大事には至らなかったのが幸いでした。

コロナへの行政の対応、社会の反応のさまざまを見ていると、こうしているうちに何かのきっかけで、重大な道を戻れなくなる地点があるのではないか、という危惧を感じます。数字による判断の怖さー死者の数を数字だけで見るのは、兵器開発者の眼で物事をみるということだ、という意味の警告が、大江健三郎の『ヒロシマノート』にあったと思いますが、コロナ対策の衝に当たる人が、日本の死者は少ない、と澄ましていていいのでしょうか。「拍手は要りません、死にに行け、と言われている気がします」とツイートした看護師がいましたが、私たちは医療関係者に美談を要求してはいないでしょうか。用心していてもコロナに罹ってしまった人を排撃する動き、逆に、用心なんかする必要はないとイキがる人々ーみな、あの戦争中にそっくり似た話がありました。

国難とか、打って一丸となってとかー感染症は、もっと冷静に対処すべきものです。