田辺旬さんの「北条「九代」考」(「年報中世史研究」45号)という論文を読みました。従来、北条氏嫡流の家督(得宗)は時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の九代とされてきたが、鎌倉期においても得宗は九代と数えられていたのか、北条氏の先祖はどう認識されていたのかを、追究したもの。
鎌倉期には北条氏の先祖を、頼朝を後見した時政と見るか、承久の乱で勝利した義時と見るか、2つの視点があったが、時政から高時までを八代とする史料が多く、短期間でも執権に就任した経時は得宗に数えられたが早世した時氏は数えられていなかったらしい、室町期になると経時は得宗には数えられなくなる、と田辺さんは指摘しています。
『太平記』は高時を「平家九代」としていますが、上記のように古写本『梅松論』や『神皇正統記』など八代ととする史料の中では異色で、これは『平家物語』が維盛を平貞盛から九代に当たる嫡流としていることに引きつけて、北条氏の滅亡を必然としたのであるとしています。繰り返しが多く、もう少し整理して書くことも出来たのではないかと思いましたが、分かりやすい結論です。
きりのいい数字を掲げて時代を画そうとする志向は、歴史書にはしばしば見られ、その際に先行作品の型を踏襲することはよくあります。日本の歴史文学が中国の史書を模したがることはよく知られていると思いますが、強面の『太平記』が、物語志向の『平家物語』を模倣したがるのはちょっと意外かもしれません。しかし実際には『太平記』は、異化しようとしながら『平家物語』に依存しており、その当時『平家物語』が、いかに多くの人々にとって「歴史」であったかを改めて認識させられます。『太平記』研究者の感想を聞きたいものです。