源平の人々に出会う旅 第50回「相模・平家その後」

 元暦2年(1185)、北条時政に連行された六代御前は駿河国千本松原で斬首されそうになりますが、文覚が頼朝を説得したことで処刑が中止になります。六代は京へ戻り、文覚の弟子となって、後に出家します。

【文覚上人屋敷跡】
 文覚は、配流先の伊豆で頼朝と出会いますが、一時期鎌倉に居住していたらしく、養和2年(1182)には、頼朝の命で江ノ島に弁財天を祀っています(『吾妻鏡』)。

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神武寺
 翌寿永2年(1183)、文覚は逗子の神武寺の住職になったとも伝わっています。覚一本『平家物語』では、六代は30歳頃に鎌倉に呼び出され、田越川で斬られたとされます。田越川は京急逗子駅の脇を流れ、逗子海岸に注ぐ川です。その近くに六代御前の墓(六代山不動院)がありますが、別当として神武寺が法要を行っているとのことです。

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【盛久頸座】
 『平家物語』には、六代以外にも平家の人々の末路が語られますが、長門本は、主馬判官盛国の末子盛久のその後を、清水観音の霊験譚として記しています。盛久は清水寺北条時政に捕縛されますが、鎌倉の由比ヶ浜で斬首されるところ、首を打つ太刀が次々と折れてしまい処刑が中止となります。この逸話は、謡曲『盛久』の題材ともなっています。

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〈交通〉
文覚上人屋敷跡・盛久頸座…JR横須賀線鎌倉駅神武寺…JR横須賀線東逗子駅
                                (伊藤悦子)