積木的議論のために(3)

学部時代(52年くらい前です)、近世文学の先生が授業時に、「無用の用」論をぶったことがありました。その当時から、大学教育に文学は必要なのかという論調はあったのです。先生は、田の畔がなければ田は作れない、という『老子』の一節を引いたのですが、高校の漢文で習った話がこんな風に使われるのか、と聞き過ごしただけでした。

ネットで調べると、無用の用に関する比喩や挿話はいろいろあるようで、『老子』『荘子』が何箇所も引かれています。しかし現代の文学教育無用論には、もはや無用の用などという高踏的な議論の入る余地はなさそうです。文学が「無用」だと認めた時点で、議論は終わってしまいそう。むしろ「有用」とは何か、有用な知識や技術を新しく生み出し、平等に安全に使いこなす基盤とは、そのために必要なものとは何か、という観点から入って行くのがいいのかもしれません。

30年以上前、名古屋で勤めていた時、裁縫学校から出発した女子大学が勤務校でしたが、そこではこういう話が伝えられていました―創業者から二代目の理事長に引き継がれた時、家政学部のほかに文学部を作る話が持ち上がり、反対意見が続出。二代目は名古屋大学の理系の教授でしたが、それに対し、「文学部があると大学に品格が出る」と言ったそうです。理系でも実学でもなく、文学を学ぶことが人づくりの上で何の役に立つかを、経営者の言葉として端的に言いおおせている、と思います。

日本を大国にしたければ、文学を始めとするリベラルアーツを大事にすべきではないですか。小さいながらも世界から尊敬され、一目置かれる国にしたければ、国民の教養度を上げ、視野を広げることが必要でしょう。戦闘機を買うよりも、あたら若者を紛争地の警備に送り出すよりも。