吾妻鏡の文書利用

高橋秀樹さんの「『吾妻鏡』の文書利用についてー頼経将軍記を中心に―」(「國學院雑誌」 12月)を読みました。『吾妻鏡』研究の2つのポイントは諸本研究と原史料研究であったとした上で、承久元(1219)年~寛元元(1244)年の頼経将軍記における文書を利用したと見られる本文記事を分析しています。

その結果、①幕府側がまとめていた六波羅宛通達文書の案文集 ②三善家保存文書(問注所宛関東御教書の原史料) ③その他の伝達文書 ④権利関係文書(問注所に保管された文書類)などが利用され、時には日記を併用したりもしたであろうと推測しています。幕府そのものの文書保管機能とその利用にもっと注目していい、と説き、それらの原史料から地の文を創出する際に、一定の形式に拠ったことが多く、単なる実録ではないことも、従来の指摘を補強しています。

頷きながら読みました。私は『源平盛衰記』や『承久記』の注釈の際に参照するだけですが、どうも『吾妻鏡』の文章は、不揃いで扱いにくい。そのことを実証的に説明されたからです。単に、編纂物だから丸ごとは信用できないというだけでなく、ぶっきらぼうな実録的文体と簡略だが物語的な文章とが混在しているし、叙述する主体のあり方もばらばらで、統一が取れていない、とずっと感じてきました。出所の異なる史料を一定の様式にはめ込んで、あたかも幕府が一貫して記録し続けてきたかのように拵え上げた、とすると、その不揃い感がよく理解できます。

頼朝旗揚げ記事を持つ読み本系が『平家物語』の祖型だとするならば、どうしても『吾妻鏡』の正体に肉薄しなければならない、と思いながら、なかなか近づけずにいました。時機が来たよ、と言われているように感じながら、読んだことでした。