方丈記と五大災厄

説話文学会9月例会をオンラインで視聴しました。今回はハイブリッド、オンラインでは60名強、会場には30名以上の参加があったようで、申込数は130だったとのこと。荒木浩さんの司会、タイトルは「五大災厄のシンデミック―『方丈記』の時代」でした。木下華子「『方丈記』「都遷り」の生成と遷都をめぐる表現史」、児島啓祐「慈円の災異論と台密修法―『愚管抄』の災厄記事を中心に」、ブラダン・ゴウランガ・チャラン「海外の受容から窺う『方丈記』の五大災厄―英語圏における翻訳とアダプテーションを中心に」という3本の報告が並び、力の籠もったシンポジウムでした。

ゴウランガさんは、夏目漱石が大学2年で抄訳した英訳の影響が、西欧では後々まで強く、閑居生活を中心に読まれてきたが、1933年に英国のモダニスト詩人バジル・バンティングが、当時の政治経済への批判として翻案を試みたことを紹介、世界文学としての方丈記を知ることができましたが、近代日本文学史と並行して考えたい気もしました。

圧巻は木下さんと児島さんの報告です。前者は10日の研究発表(本ブログで紹介)のほつれ部分を整理、すっきりして自信に満ちた見解になっていました。児島さんは、慈円台密の修法によって後鳥羽院を災異から護り得たことを愚管抄で強調していること、平家物語は当時の陰陽道内の対立について独自に安倍泰親を称揚していること、慈円は死者供養を密教と浄土思想とを融和させて考えていたことを詳しく述べました。2人とも各々、長明と慈円を総合的に、しっかり把握していることが鮮やかでした。

思うに神官の家出身と天台座主になる運命の育ちとでは、自然観、歴史観も異なるのは当然といえば当然。長明(蓮胤)が、意図的に平家没落や戦乱を書くまいとしたことはあり得ます。なお、原平家物語が治承物語として誕生したかどうかは不明です。