西尾実とフィヒテ

松崎正治さんの「西尾実の国語教育思想における言語観ーフィヒテ言語哲学を媒介としてー」(「同志社女子大学学術教育年報」67)を読みました。日本の国語教育の父ともいえる西尾実の言語生活論の発想源を、1920年代後半から1945年頃までの彼の言説から確かめようとするに当たり、ドイツの哲学者フィヒテが1807年から翌年にかけて行った講演「ドイツ国民に告ぐ」が日本の国語教育に与えた影響に注目して、考察した論文です。

さきの大戦に、ふつうの日本人が知らず知らず駆り立てられて行った道筋が、一筋縄ではいかぬものであったこと、そのあやまちを繰り返さないための正しい警戒心をどう保持していくかを改めて考えさせられました。新しい世界思想に遅れまいとすることや集団のアイデンティティ育成・維持に熱心になることの危険性を、かすかな寒気と共に感じたのです。

西尾実の時代でいえば、遅れて出発した近代国家日本が、欧州諸国の文化に追いつき頭角を顕わさねばと「はりきる」中で、ドイツ哲学のみならず、異文化融合、日本語教育民俗学等々、それだけを取り出せば政治権力や軍国主義とは必ずしも一体ではない問題に取り組み、「前向きに」発言する内に、結果的に時の趨勢に奉仕していく怖さ―それを、現代の私たちは充分に認識できているでしょうか。

当時の人々の言動を、現代の安全地帯から非難するのはたやすい。重要なのは、この「怖さ」をどれだけ知っているか、現代においてはまた別の相貌を備えているかもしれないその種の誘惑を、きっぱりと退ける構えが常時あるのか、でしょう。