東洋史の定年後

この春、定年になった東洋史の平勢隆郎さんから、近況報告のメールが来ました。

[運動不足なので、食事の量を減らしました。この2年ほど、論文や資料をPDFにする整理が追いつかなかったのですが、その作業に手を出しました。複製も作っていて、整理ファイル数は25000ほどになることがわかりました。1600ほど未整理分があります。頂いたままだった論文はPDFにしましたので、ファイル名をキーワードで検索できます。整理するだけでこんなに大変なのか、とわかり、つきあいと研究のせめぎあいはすごいもんだと思ってます。でも、そのつきあいが自分の研究にかなり役立ったというのが、これまでのわが人生なんですよね。整理しながら、つくづく人にめぐまれてきたな、と思ってます。
 買ったまま埋もれていた中国の雑誌(かなりしぼって残しました)も、そろって自宅の書架に配列できました。](平勢隆郎)

2万5千!平勢さんは昔から、こういうコスパを無視した仕事をやる人でした。東大の後輩、鳥取在勤時代の同僚です。これまで様々な専門の同僚に刺激を受けたと言うあたりに、成熟を感じました。以下に、彼の大著の紹介があります。

「仁」の原義と古代の数理  https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/E_00223.html 

 英文サイトもあるそうですが、[最初から日本語なしで原稿を担当者に提示したところ、「ここがわからない」と言われた箇所もあったのですが、「わからなくても英語がまちがってなければいいです」と伝えました。わかりやすくすると、往々にして「意味ちがっちゃうんだけど」ということになります。今後もずっと、そういう関係が続くんでしょうね。以上、単なるぐちです。]相変わらず、マイペースの人です。

コロナの街・part3

差出人厚労省医政局経済課のマスク2枚が、昨日、我が家のポストに投函されました。いわゆるアベノマスクです。ヘルパーさんたちは、薄いガーゼなのでほぐして手作りマスクに重ねて使うそうです。一時は手に入らなかった紙類の衛生用品はもう、店頭に山積みになりました。オイルショックの時と同様、こういう際に、店の本性が分かります。角の薬局は、日頃¥480のトイレットペーパーを¥790で売りました。雑貨屋は使い捨てマスクを1枚¥130で出し、その後¥120に下げました。何故かスープ屋が、マスク1箱¥3500で呼び売りしていたのは一昨日でした。

我が家では心配してくれた方々から1枚、2枚とマスクを頂戴し、今は使い捨てマスクが何回洗って使えるか、実験中です。まず手を洗い、掌に石鹸をつけてマスクの両面を撫でるように洗います。濯ぎに消毒用アルコール(冷蔵庫の中を拭くために買ってあったのですが、使用期限を見たら2012年。気休めに使っています)を入れ、揉まずに押し洗いし、最後にプリーツを広げるようにして上下から水を流し、縦に畳んで水を切ります。

感染と経済の2つの語だけで政策が語られていますが、我々の「生活」はその間にあり、そこを護るのが政治ではないでしょうか。感染と経済のどちらをとるかでなく、それに挟まれた民の暮らしをどう支えるか、から発想して欲しい。「新しい生活様式」などというキラキラしたキャッチフレーズ(せめて用語は「コロナルール」くらいにしておけ)で目先をごまかすやり口は、言葉を扱う専門家としては聞くに耐えないのです。

さしあたって、ふつうの値でふつうにマスクと消毒液が買えるなら、我が家ではコロナ予防のルールに合わせて行動します、指図されなくても。生活様式なんて、家風と同じで、行政が決めるものではない。

大学院1年

大学院へ入学したのは1968年春でした。会社勤めを断念して入ったので、退路はないと思っていました。平家物語を研究するには仏教、歴史、漢文学も必要だと考えて、他専攻の授業にも潜り込みました。辻善之助の日本仏教史、紅顔の助教授だった石井進の中世日本史、吉田精一の明治文学演習・・・仏教学の演習に出てみたら、現役の僧侶たちが宗派ごとの僧衣で出席(宗論です)、1回で尻尾を巻いて退散しました。敦煌変文の授業は、講義科目だったのに毎週配られる変文を読まされ、私には大漢和辞典を引くしか予習の手段がなく(でも中文の院生も同じだった)、苦しい思いをしました(国語学の上級生が、ノート取っといてね、と言いつけて休むのには閉口しました)。

しかし医学部から始まった大学紛争が燃え広がり、3ヶ月も経たずにすべて休講になりました。しだいに大ごとになり、暴力的になって、研究室も図書館も封鎖され、授業に出るのは命がけでした(この間のことは、『文学研究の窓をあける』〈笠間書院 2018〉に書いておきました。当初は大義のあった大学闘争でしたが、大勢が抱きついてくるにつれ無理が生じ、変質していったのです)。学外で研究会をしようとしても、学生がいると分かると断られました。封鎖は全国の大学に広がり、ちょうど現在のような状況でした。やむなく全国を歩いて長門本書誌調査を始めたのですが、下関まで来て、明日は関門海峡を渡るという時に九大から電報が届き、引き返したことは忘れられません。

修士課程に3年在籍しましたが、研究とはどうやればいいのかも分からず、やみくもな書誌調査で採ったデータは寝かせたまま、整理できたのは30年以上経ってからでした。

いま立ち往生している大学院1年生の皆さんーやみくもでも、自分なりに今やっておくことは無駄にはなりません。文系の給付型奨学金(公益信託松尾金藏記念奨学基金)は例年通りの応募者があり、選考準備が始まりました。審査委員の先生方も事務局の銀行も、例年通りの支給(夏休み前に決定、給付)を可能にしようと知恵を絞っています。

南北朝期の元号

君嶋亜紀さん「南北朝期の勅撰集と元号」(「文学・語学」227号)と「『新古今集』春部の柳歌ー崇徳院「いなむしろ」詠の周辺ー」(「大妻国文」51号)を読みました。前者は、南北両朝が、それぞれ自らの正統性を示すべく元号を制定した時代の勅撰集及び『新葉集』に、その元号がどのように扱われているかを検討したもの。新政と争乱の治世であった建武という元号について、『新千載集』には後醍醐天皇への懐古と鎮魂の意図が見え、敗者の歌を多く載せる『玉葉集』を継ぐ『風雅集』と共に、勅撰集の枠組の変質を感じさせるとしています。元号によって時代を象徴させる感覚に関しては、「治承物語」の書名や、芸能の世界で屋島合戦が「元暦元年」とされることなど、思い当たることが多く、私も今後考えてみたいと思いました。

後者は、『新古今集』71番歌の「いなむしろ」という歌語の考察から、『新古今集』春部の構成を論じ、68~75の柳詠には後鳥羽院の御代への祝意が籠められているとするもの。1つの語義から拡散していくように見える論が、『新古今集』の意図に収斂し、和歌の解釈だけに留まらず、軍記物語研究にも波及する可能性を感じました。

「大妻国文」本号には、小井土守敏さんの「〈資料紹介〉大妻女子大学蔵『平治物語絵巻 信西巻』」や、桜井宏徳さんの「歴史叙述と仮名表記ー『愚管抄』から『栄花物語』を考えるための序章ー」も載っています。後者は、年代的には六国史を継ぐとされている『栄花物語』に、果たして平仮名で歴史を語る意図があったのかという問題意識から出発して、片仮名交じりで書かれた『愚管抄』を通して、日本の歴史叙述の文体を考えようとする意欲作。今まで軍記物語ばかりで手一杯だったけど、私ももっと、いろいろな文学をとりあげたかったなあ、という思いに駆られました。

不登校

生涯で学校に行かなかった時期が2度、あります。1度は大学院修士課程。大学紛争のおかげで授業はおろか、研究室も図書館も封鎖、ちょうど現在のような状態でした。その話は別に書くとして、もう1度は小学校時代。入学年齢の前年の秋、脊椎カリエスで絶対安静になり、1年遅れて入学、祖母に付き添って貰って登校しましたが、再発し、1年次に数日、4年次に数ヶ月、5年の後半から約1年半通っただけでした。

それでも何とかやって来られたのは、親たちが本好きで、家に大量の本があり、しかも当時は子供向けの本が少なかったので早くから大人の本を読み、また多分にラジオ放送から知識を得たからでしょう。牧野植物図鑑を端から端まで読み、植物の分類体系を覚えました。母方の伯母が贈ってくれた子供用の1冊本百科事典は、天文学の知識から短歌まで、あらゆる分野のことが盛り込まれていました。算数は主としてドリルを解きましたが、時々家庭訪問してくれる担任から、九九は教えておくようにと親が言われていました(実際、後年、定時制高校の教諭になって、学力のつまずき初めは、九九を覚え損ねた場合が多い、と知りました)。

習わずに後で困ったことは、楽譜の読み方と包丁の使い方でした。習っておいてよかったのは、漢字の筆順と算盤です。いま思えば父は、当時としてはすぐれた子供向けの科学書や文学書を探して買ってきてくれていたのですが、中には好きになれないものもありました(大島正満の『動物物語』は愛読しましたが、清水崑の『聊斎志異』はなじめませんでした)。いま学校閉鎖が続いて、焦りを感じている方も多いと思いますが、小学校の段階では、基本的な人間性と好奇心だけ養われていれば、長い人生の中で、不登校や学校閉鎖の期間は問題にならない、というのが私のひそかな確信です。

源平の人々に出会う旅 第40回「那須・扇の的」

 元暦2年(1185)2月、義経は少数の兵で阿波国勝浦に上陸し、讃岐国屋島にある平家の館を襲撃します。海上へ逃れた平家との、陸と海との戦いとなり、源氏方の佐藤嗣信が能登守教経に射殺されてしまいます。

那須温泉神社】
 日が傾くと、平家船が陸に近づき、船端に扇を立てたます。扇を射るよう義経に命じられた那須与一は弓をつがえ「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現宇都宮、那須の湯泉大明神、願くはあの扇の真ん中射させてたばせ給へ」と祈ると、風が弱まり、矢は扇の要に命中しました。

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那須与一腰掛松】
 覚一本『平家物語』は平家が扇を立てた理由は記していませんが、『源平盛衰記』は軍(いくさ)占いのためとし、高倉院が厳島御幸の際に奉納した扇としています。後日談として、那須町には、与一が那須湯泉大明神に御礼参りに行った際に腰掛けたという腰掛松伝説が残っています。

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【黒磯巻狩鍋】
 那須といえば、源実朝の「武士の矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」(金槐集)が思い浮かびますが、頼朝の那須の巻狩も有名です。郷土食の巻狩鍋は、その時に捕獲した熊・鹿・鴨などを大きな鍋で煮込んで食す様子をイメージして、現代風にアレンジされたものです。毎年10月に行われる「巻狩まつり」では、巨大な鍋が使用されます。

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〈交通〉
 JR黒磯駅よりバス
      (伊藤悦子)

読み直す憲法2020

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持 しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないので あつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を 維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを 誓ふ。

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常 に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第十五条  1 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。      2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

第九十七条  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 (日本国憲法より抜粋:mamedlit)