知的伝統

朝日賞受賞の弁に、ローマ法研究者の木庭顕氏がこう書いています―時代に流されないことは簡単ではないが、重要です。その時こそ、古典の力が安定的です。

古典が役に立つとか、必要だとかではなく、「古典の力が安定的だ」という言い方に、信頼の念を抱きました。さらに、知的伝統を若い世代に伝える際の注意点として、彼は次のように結んでいます。「伝え手にとって重要なのは、受け手を低く見ないこと。伝わらないとしたら、レベルの落とし方が足らないのではなく、レベルそのものが低すぎるのです。」

我が意を得ました。今まで、TVのディレクターや出版社の編集者と、何度そういう押し問答をしてきたことでしょう。大学の広報が雇った記者が、私のインタビューはそっちのけで、机上の置物ばかり撮影して、大学教師はもっと親しみやすくなくっちゃ、と言ったので、激怒したこともありました(私の演習はこわもてなので、親しみやすい犬の置物なんかで紹介されたら、偽表示になってしまいます)。

大衆を低く見るな。低いのはおまえの方だ。当今の、古典の大衆化にもそう言いたくなる例が少なくありません。分かりやすさとは何か、そこにそれなりの哲学がなければならない。

木庭さんの本を読んで見るかな。でもローマ法?解るか。第一、これから軍記物語や中世史の本を山ほど読まなければならないのに、どうすんの?

神皇正統記

花鳥社の公式サイトに、軍記物語講座スタートの企画会議の一部がアップされました。小秋元段北村昌幸・和田琢磨という、中堅・気鋭の太平記研究者と意見交換しながら企画が作られていく過程の、ごく一部が紹介されています。https://kachosha.com/gunki2019013001/

その中で、『神皇正統記』と太平記の思想を比較してみたらどうなのか、という提案に、今は必要な環境が整っていない、という意味のことを私が言っていますが、紙面の都合で後半を割愛したので、最小限度補足したいと思います。詳細は『神皇正統記 軄原抄』(朝倉書店 2014)解説と研究史、及び科研費平成25年度報告書『「文化現象としての源平盛衰記」研究』第4集(非売品 2014年)を参照して下さい。

神皇正統記』の成立論は未だ夜明け前です。それは諸本論が進んでいないからでもあります。重要伝本の奥書をどう解釈するか、そもそも書誌学的に主要伝本の年代や伝来をどう評価するか、等々の根本的な問題が、戦前から殆ど再吟味されていない状態にある。しかし軍記物語を初めとして、中世の歴史叙述のありようについての調査・研究は戦後大きく変わり、近年、本文流動についての見方もしだいに具体的になってきました。その成果を応用して、『神皇正統記』の成立と展開も、究明が進められるべき時期が来ているのではないでしょうか。

神皇正統記』の思想を論じるなら、北畠親房の立ち位置を、他の著作―『職原抄』や『古今序注』、『元元集』とも併せて考えねばならないでしょう。当今の用語でいえば王権との関係です。王権と武士、権力・武力と知識人の関係は、今まさしく中世文学研究の熱い話題。注釈文芸という方法の考察もまた、今日的なテーマです。誰かやりませんか、30年の時間があれば。

珈琲が呼ぶ

片岡義男『珈琲が呼ぶ』(光文社 2018)を読みました。本屋で探したが入手出来なかったとぼやいたら、アメリカ文学専門の友人が取り寄せて貸してくれたのです。送り状には「片岡は父親が日系2世であり、自身も幼少時にハワイで数年暮らしたことがあるためでしょうが、その英語力を生かしたというか、英語力に裏付けられた、アメリカ文化論になっていると思いました」とありました。

350頁もあるソフトカバーで、全編珈琲が絡んだエッセーです。余白の多い組みなんだろうと予想して、開いたら吃驚。ぎっしり詰まった文字、大胆に挿入された写真やデザイン画。ある意味で、贅沢を極めた本造りと言えましょう。

本書を探したのは、かつて『スローなブギにしてくれ』を読んで、作者に惹かれていたからです。ちょうど私は、『太平記』はハードボイルドタッチの軍記物語だ、という文章を書いたばかりで、専門家の友人が苦笑いしながらも、そう言えば細部の描写が詳しい点は共通している、と賛成してくれました。しかしその後は日々に逐われて、彼の新作を読むことはできずに歳月が過ぎてしまったのでした。

読む内に、独特の語り口が記憶から蘇ってきました。1960~70年代の神田・お茶の水、そして高田馬場や梅ヶ丘・中井など私鉄沿線の街のたたずまい、喫茶店の雰囲気、さらにインスタントコーヒーの普及に同調しながらも、砂糖やカップに凝ってみたりしていた時期のことが、活字の間からありありと起ち上がってきます。

友人の言うように、彼の英語に関する感覚の鋭敏さ、外国映画やジャズに関する知識の該博さには舌を巻きます。中にはだらだら書き流したような文章もありますが、意図的にことの順序を入れ替えて書いたりする作家魂に、一種の郷愁を感じました。編集者たちとの付き合いや漫画に関する蘊蓄も、よき時代の1コマなのでしょうが、もはや私の世界とは遠くて、読後の幸福感のみが残りました。

 

人面花

朝、南向きの硝子戸を開けたら、街の音がざわざわと押し寄せてくる。一瞬、何かあったのだろうかと思いましたが、今日は南風で、音が吹き寄せられてきているのでした。昨日の風の冷たさとは変わって、春が近いような錯覚を起こしましたが、勿論未だ未だです。

三色菫を植えました。いつもは年末に、日々草ビオラや三色菫に植え替えるのですが、最近は派手な宿根草ばかりが店に出て、やっと昨日入手することができた苗です。三色菫は人面花とも呼ばれると聞いたことがありますが、何だかブルドッグを連想します。子供の頃、自動車の前面や草花が人の顔に見え、大抵の花は笑顔に見えるのですが、三色菫は何故かしかめ面に見えました。

ヒヤシンスの芽が出ました。枯れ菊の根元には銀色がかった新芽がびっしり出ています。18年前、世田谷に住んでいた頃、春先に近所の家の垣根越しから、やわらかな菊の芽がこんもり茂っているのを見て、これこそ平和の象徴のような景だと憧れました。陽だまりに菊の芽萌ゆる小庭にて老後しづかに暮らさむとおもふ―当時は遠距離通勤と親の介護に振り回されていましたが、その時の勤務先は65歳で定年になるはずだったので、自分の10年後を夢想したのです。

あの夢は半分実現し、半分は未だに叶っていません。70歳で定年になりましたが、今日も、飛び込んでくる連絡メールに逐われています。

相撲医

初場所がやっと終わりました。横綱が1人引退し、2横綱が休場、ふがいない場所のようでしたが、こうでもないと若手が頭を出せなくなったと思えば、それなりの楽しみ方も見えてきます。しかし、全く素人の私が観ていても、突き押し相撲ばかりで、負け方にも勝ち方にも豪快さがない。上位昇進の条件に、勝ち星数だけでなく、そのうち何番かは組み相撲であること、という項目を加えて欲しいと言いたくなります。

引退した日本人横綱は、自己責任とはいえ気の毒でした。もう、スポーツとしての相撲に国籍を言うのはやめようじゃないか、国際的スポーツになったのだから、外国も出身県の一つ、くらいに考えたい、と思います。横綱の国籍にこだわるのは、競馬(くらべうま)と共にかつては神事だった歴史が影響しているからでしょう(両国の建物の名が国技館だから、なんかではありません)。その上、近代でも男子2世代間のスキンシップの代表が、キャッチボールと並んで相撲であることも無視できないかも知れません。しかし、東北大地震の後、白鵬が土俵入りする自分を拝む東北人たちを見て、日本人にとっての相撲の意味を理解した話は有名です。その瞬間、白鵬の国籍は関係なかったはず。江戸歌舞伎の役者が東京五輪に合わせて襲名する話が出ましたが、今さら、来年夏場所の土俵入りには云々のつまらぬ取り沙汰がありませんように。

それにしても、場所途中で怪我をする力士が多すぎる。柔道やフィギュアスケートには、専門の医師やトレーナーがいるのに、相撲医という専門家はいないのでしょうか。もっと科学的なトレーニングや、基礎的な身体作りのマニュアル化を、相撲協会も本腰を入れて考えるべきではないですか。国技というのなら、相撲医養成の奨学金くらい出してもいいかも。

会津八一

村尾誠一さんの『会津八一』(笠間書院 コレクション日本歌人選68)という本が出ました。このシリーズは、各冊120頁前後のコンパクトな本で、1人の歌人の詠50首を取り上げ、1首ずつ見開き2頁で解説するという形式を採っています。通勤や旅行に携行して読むのに便利、つまり、ごく身近かに和歌を置いて貰おうという狙いの本造りです。本来中世和歌が専門の村尾さんも、その企図に応えて解説しています。

会津八一は、一時代の日本人の郷愁を代表するような歌人で、平仮名書きで奈良の古寺を歌う独特の作品群は、和辻哲郎『古寺巡礼』や入江泰吉の写真集と共に、多くの人に愛誦されたものでした。亡父もその書と歌とを愛好していましたし、私も文庫本の歌集を買って、家事の合間に1首ずつ読んでいたのですが、一昨年、親の蔵書と一緒に処分してしまったようで、書架に見つかりません。本書は50首限定なので、何だか見覚えのある歌が少ないような気がしますが、それは著者の意図した選歌なのでしょうね。

ただ配列を題材別にしたのは疑問です。やはり詠じた年代順にして欲しかったし、巻末の「歌人略伝」と「略年譜」とがほぼ重複しているのも残念。何故なら彼の生きた時代は、日本人の古代・古都・寺仏への感性が大きく揺さぶられた時期だったからです。もはや現代の読者の多くにとっては、あの時代の雰囲気は、解説なしには理解出来ない距離を隔ててしまった、と痛感するこの頃です。

もう一つ欲を言えば、彼の書で、平仮名書きの短歌を掲げて欲しかったということですが、口絵1枚を入れるのは不可能だったのでしょうか。

大人のおやつ

林檎とドライプルーンを、赤ワインで煮込んでみました。いつもは、林檎をバターとレモンで煮るのですが、グルメ作家が紅玉を砂糖と赤ワインで煮る話を書いていたので、安い赤ワインを買ってきました。添加剤なしのペットボトル入りです。林檎は富士だし、ワインもちょっと甘めなので、プルーンが入れば十分と考え、砂糖は使いませんでした。

林檎2箇、プルーン1袋(分量表示がないのですが、手で持った感じでは180gくらいでしょうか)、ワインは約360ml、目分量です。林檎は皮を剝き、芯を取ってざくざく切り、琺瑯鍋に詰め込んでぐつぐつ煮ました。20分もするとプルーンが崩れ始めたので火を止め、シナモンを振って味見しました。

美味でございます―整腸剤にもなるらしい。家中にいい香りが漂って、幸せな気分になります。原稿も1本上がったし、今夜は紅茶とこれで、「ルパン三世」を視よう、と決めました。ふと、残った煮汁で牛肉を煮たらいいかも、と思いつき、ついでに肉屋の女将にも瓶詰めにして分けることにしました。大人のおやつだから、と説明しなくちゃ。 

追記:新作で視ると、アニメの本説が分かって面白い。日テレの「ルパン三世」には、ピアノの調律、AI、アメリカの女性大統領、と今どきの話題が山盛りで、それに騎士の純愛で味付けしてありました(峰不二子がおとなしくてつまらなかったけど)。後年、再放映で見る時にどれだけ面白さが残るかも、計算して作っているのでしょうね。