武者の世の始まり

坂井孝一さんの『承久の乱』(中公新書 2018)を読みました。分かりやすく、すいすい読める本です。中高の日本史で習ったことと、軍記物語に関わることで断片的に身についた知識とがつながって、おぼろけながら13世紀初頭が見えてきました。著者自身が言っているように、院政の成立と展開、武家政権の成立発展を見渡せるように承久の乱が位置づけられ、しかも文化史的視点を保ち続けながら著述されているところが本書の特徴です。

坂井さんの見解は、後鳥羽院鎌倉幕府打倒を意図したのではなく、あくまで北条義時を排除して幕府をコントロール下に置こうとしたのであったが、幕府側が武士政権存亡の危機感を煽って反撃体勢を整えたため、敗北した公家側はそれ以降、幕府の支配を受けることになったのだ、というものです。その引き金となったのが実朝の暗殺、そして源頼茂の乱によって焼失した大内裏再建の不如意であったという組み立ては、大いに納得できるものです。

我々の承久の乱及び後鳥羽院観は、後醍醐天皇による倒幕、15~16世紀以降の『吾妻鏡』の流布を経て形成されてきたものだ、との指摘も肯けます。従来も言われていたことではありますが、「真の武者の世」は承久3年に始まったのであり、以後大政奉還まで、武家はその政治的優位性を公家に渡すことはなく、承久の乱はそういう画期の始まりだった、との結論は今や日本史の基礎知識と言っていいでしょう。

私としては承久の乱後、後嵯峨院時代の文化サロンにつよい関心があります。平家物語の成立は仁治元年以前ではなく、微妙な期間ですがそれよりやや遅れて、進捗しつつあったのではないかと考えるからです。

たたみいわし

湘南地方で育ったので、たたみいわしは誰でも知っているものだと思い込んでいました。最近は店頭で見かけることがあまりありませんが、子供の頃はもっと大きくて(B5くらい?1枚を家族で分けました)、今よりずっと安かったと思います。朝食や弁当のおかずに毎日のように出る食材でした。かるく焦げ目のつくくらいにあぶって、醤油をちょっとつけて食べます。

群馬出身や三河出身の知人に話しても、どんなものか想像もつかないと言われます。鰯の仔を海苔のように延ばして・・・と説明したら、1匹の鰯を圧延した姿を想像したらしい。近所の魚屋では、注文すれば冷蔵庫から出して売ってくれるので、論より証拠、買ってみたら、と勧めました。今では5枚¥500で、大きさはA5くらいでしょうか。群馬のおばさんはすっかり気に入ったようで、マイブームになったとのこと。

三河出身の40代女性は、さっそく仲間たちとネット検索したらしい。作り方を知って、これなら高級食材だ、決して高価ではない、と言う。博多出身の我が家の大人たちは、しらすがごっそり入ってくる湘南の地曳網を莫迦にしていましたが、今やしらす丼は、行列に並んで食べる名物なのだそうです。

私もネットで調べたところ、たたみいわしは一味を混ぜたマヨネーズをつけても美味い、とあって吃驚(ウィキペディアが、この部分に出典を要求していて2度吃驚。あくまで個人の感想、でしょう)。朝の忙しい時間、質素な食事の支度中に漂う、あの香ばしい匂いは、もう別のものになったようです。

贈る言葉

成人式や卒業式の季節には、大人から新人に贈る言葉があちこちで見聞きされます。学部を出る時に唯一耳に残ったのは、国語学の市川孝先生の謝恩会でのスピーチ。「社会に出ると、事ごとに対立する相手に出会うことがある。その時は、あの人が私を嫌うはずがない、と自分に思い込ませなさい」という言葉でした。現実の社会ではあまり役に立ちませんでしたが、後年、記憶に残る言葉を頂いたと申し上げたところ、とても喜ばれました。

知人のメールにこんな思い出話がありました―3人姉妹で育って怖い物知らずだったが、大学の専任教員になる時に親族からこう助言された「就職したら、できるだけ喧嘩をしないこと、喧嘩をしなければならないときはできるだけ味方を集めておくこと、喧嘩をしても最後は仲直りができる道筋をつけておくこと」と。これは実際に役に立つ助言です、殊に3番目の項目が。教育の場では、信念の上からどうしても譲れない喧嘩になることがあり、わざとらしい妥協は後の災いを招くからです。

以下は日本史の友人から聞いた話―大学院を出るときある教官は教え子に「いいね、世の中に、今のおまえが断って他人が困る仕事はないんだよ。但し断る時は早く断りなさい」と言ったそうで、教え子はその足で判子屋へ行き、速達のゴム印を作ったそうです。またある教官(後に日本史の大家になられました)は、「就職したらすぐ、将来に差し支えない程度のミスをしでかしておけば、雑用を頼まれない」と言ったそうですが、いくら研究時間確保のためとはいえ、今どきの大学人にはお奨めできません。

風葉和歌集

三角洋一・高木和子著『物語二百番歌合/風葉和歌集』(和歌文学大系50 明治書院)が出ました。故三角洋一さんの遺稿を高木さんが補充し、分かりやすくまとめた解説が付されています。月報には三角美冬さんが「夫を送って」という追悼文を書いていて、最もよき理解者が傍らにいた、三角洋一さんの幸せを立証しています。殊に「私も、もし男に生まれたら夫のような人生を送りたかった、と思う」という結びは、これ以上はない供養だと思いました。

『風葉和歌集』は、私もどこかの授業で扱った(あるいは入試問題に使ったのだったかも)覚えがあるので、序文を開いて見た時はなつかしさで一杯になりました。年を重ねるにつれ、軍記物語やその周辺ばかりを扱うようになって(それ以外に手を出す時間がない)、中世の歌集からさえ遠ざかってしまったのでした。

『無名草子』と共に散逸物語復元の資料として使われることが多い『風葉和歌集』ですが、本来、この歌集自体にもいろいろな仕掛けがあって、作り物語があたかも実在の世界であるかのように作中人物の歌を抜き出した評価基準と、その構成意識を論じたら面白いだろうに、と漠然と考えていたのです。

今となっては一読者として、本書を楽しみたいと思います。高木さんが解説で推薦している、『物語の生成と受容③』(国文学研究資料館「平安文学における場面生成研究」プロジェクト編 2008)も引っ張り出してきました。せっかく年末にツンドクの山を整理して書棚に収めたのに、昨日は『扇の草子の研究―遊びの芸文―』(安原真琴著 ぺりかん社 2003)を引っ張り出し、たちまち卓上は元の木阿弥。 

 

扇の国

人から勧められて、六本木のサントリー美術館「扇の国、日本」展を観てきました。暖かい土曜の午後で、街には幸せそうな人々が三々五々、出歩いていました。この美術館が移転してから初めて入るので、きょろきょろしながらチケットを買い、上下階に亘る展示を観ました。折りたたみ式の扇は日本特産で、古くから輸出されていたこと、金銭代わりに使用されたことなどを知りました。

扇面で切り取った構図の面白さは、平家物語の絵画資料調査をした時から関心を持っていたのですが、扇面の使い方、配置にもいろいろあることが判りました。扇流しのデザインは、絵画のみならず工芸品にも愛用されたようですが、落花と共に紙が破れて流れていく扇を彫った鐔には、一体どんな人が使ったのだろう、と想像を誘われました。

お目当ては個人蔵の「源平合戦扇面貼り交ぜ屏風」です。解説には注文主が場面を選んで描かせたであろうとありました。屏風は絵よりも新しく、貼り直したと思われます。『曽我物語』の富士巻狩りや、『北野天神縁起』絵もありました。近世では扇面絵を貼る屏風には秋草の下絵を描くことが多い、と解説にあって、秋扇は悲しい、季節外れのシンボルだと思っていたのに意外でした。涼風のイメージなのでしょうか。

歩き疲れたので、ミッドタウンの喫茶店で、スパゲティを食べて一休みしました。乳母車を押した若いママや、おしゃれした中国人の女性や、勿論カップルも入っていて、気軽に遊びに来ている感じでした。往きは大江戸線の階段を120段も降りて来た(パラリンピックはどうするんだろう?)のですが、帰りは日比谷線霞が関で乗り換えました。50年前、初めての職場に通勤したルートです。

「扇の国、日本」展は明日まで。3月20日から5月6日までは山口県立美術館で。

美容師の正月

近所の美容院へ調髪に行きました。いつ行っても待たされることのない、つまり客数の少ない美容院で、主は若く見えるが60代になったばかりの、地元出身の美容師です。妻子は近所で妻の親と同居し、自分は母親の店を継いだらしい。家事一切をこなし、買い物上手が自慢です。

正月はどうだった、と訊いてみるとー大晦日はとにかく忙しくて走り回っていた、という。もう晴着の着付けに来るような客はいないようで、以前はおせち料理も作ったし、近くの郵便局に大鍋で差し入れもしたそうですが、今はもうやめたのにただただ忙しかったとのこと。

元旦は家族も起きてこないので、朝早く自転車で皇居を一周したそうです。それから町内会代表で氏神白山神社へお参りし、また自転車で水道橋のパン屋へ行って、デニッシュトーストを買い、さらに南千住へ鮮魚を買いに行ったと言うので、元旦にも開いている店がそんなにあるんだ、と吃驚しました。今年は活きのいいひらまさが1枚出ていた、丹後で揚がったのだそうで、さっそくさばいて半身は刺身、半身は昆布だしでしゃぶしゃぶにした、岡山の山村に嫁いだ娘が祖母の喪中を理由に里帰りしてきていたので、一家で鍋を囲んだが、だしは娘が美味しい美味しいと全部飲んでしまった、と嬉しそうに話し続けました。その声には、遠くへ嫁にやった娘が、今も自分の手料理を喜んでくれる幸福感が聴き取れたような気がしました。

2日目は新丸ビルへ、オーストラリア牛を食べに行ったが、皇居の一般参賀帰りの客でごった返していたそうです。新宿まで行って、ミュシャ展を観てきたと言っていました。そう言えば店に、彼が若い頃に描いたデッサンが飾ってあるのですが、どことなくミュシャの雰囲気に似ている。それはいい正月だったね、と言って店を出ました。

ながらとストロー

子供の頃、ストローは本物の麦藁を綺麗に切り揃えたものでした。勿論、商品です。束で買うのですが、保存に留意しないと中に黴が生える。使う時は、必ず中空部分を覗いてから吸いました。その後防水処理をした紙製になり、プラスチック製になりましたが、子供時代からストローは病人か赤ん坊が使うもの、またはお上品な風習、というイメージが強くて、飲み物の必需品とは考えていませんでした。

茶店へ出入りできるようになって(大学生以降です)、ミルクセーキにもアイスコーヒーにもストローがつきものであることに慣れました。プラスチック製は出回り始めた当初、やや勿体ない気もしましたが、折れ曲がる製品を見て、便利だなあと納得した覚えがあります。近年、コンビニでは食品を買う客にストローやスプーン、フォークをつけるようになり、時には、要りますかという店員の質問に、要らないと答えたにも拘わらず、無意識で袋へ放り込まれていることがあって、我が家の引き出しには、それらが溢れんばかりに溜まっています。

地球環境のために、とストロー撤廃運動が始まり、ファストフード店では善後策を模索中だとか。ただ食感優先の飲料(例えばフラッペなど)にはどうしても欠かせない、と担当者が頭を抱えているのだそうです。どうしてストロー(レジ袋は有料化運動が始まったらしい)なのか、もっと根本的な、石油製品大量消費の問題に果たしてつながるのか、疑問ではありますが。

ストローが飲料に必ずついて来るようになったのは、ながらの習慣と並行しているのでは、と思います。歩きながら、読みながら、画面を見ながら飲むにはストローが必要だからです。老人はそんな飲み方をすると、誤嚥を起こして命に関わるのですが。