s字理論T字理論

私たちの世代では定年まで勤める女性は少数派だったので、勤めおおせる女性のタイプをひそかに観察し、その結果3つの類型がある、という仮説に達しました。①女王タイプ ②童女タイプ ③お母さんタイプの3つです。男性の中に1人だけの女性、という場合にはだいたいこの3タイプのどれかに当てはまるようですが、時代が進んで2人目の女性として参入するには、時と場合に応じて使い分けられることが必要だったでしょう。但し男性に向かっては②、同性に向かっては①、という型は最悪です。

私より8~12年くらい上の世代は、無意識ながらs字理論とでもいう価値観を持っている女性が多かった。現在でも「男尊女子」という成句があるようですが、男性が上、その一番下に優秀な女性が(勿論自分はその中に入って)いる、というものです。私より10年くらい若い世代は、やはり無意識ながら、T字理論とでもいうべき感覚でやっている女性が多い。男性の下に女性はすべて(年齢やキャリアに関係なく)平等だ、という態度です。

この頃はもう、さりげなく男女混交でやっていけているのでしょうか。SもTも、笑い話になっていればいいのですが。

死すべき定め

アトゥール・ガワンデ『死すべき定め』(原井宏明訳 みすず書房 2016)を読みました。著者は1965年生まれ、医者の両親を持つインド出身の外科医で、ハーバード大学医学部の教授でもあります。本書の原題はBeing Mortalーつまり人間は必ず死ぬものなのだから、同じ人間として、副題にあるとおり「死にゆく人に何ができるか」を真剣に考えようという姿勢で(同時に医療制度の経済効率も視野に入れて)書かれた本です。介護と終末ケアの問題について具体例を挙げながら、医療関係者としても家族としてもぎりぎりの線を探ろうとしています。

医事エッセイなのにまるで中編小説を読んだような気になり、何度も涙が出そうになりました(訳者も同様だったらしい)。あちこちに共感する語句がありますが、中でも父親を看取って、ガンジス川へ散骨に行く場面(父子とも最前線の科学者で国際人なのに)は胸が詰まりました。しかし最も印象に残ったのは、知人の医師が自分の父親に「生き延びるためにどこまでやるか、どの程度の生き方なら耐えられるか」と質問し、父親は「もしチョコレートアイスを食べてフットボールの試合をテレビで見ることが出来るなら、生き延びていたい」と答え、その通りの終末期を送らせることができた、という挿話でした。これからは患者も家族もそこそこ医学の知識がないと、自分たちの命の選択すらできない、とつねづね感じていましたが、自分の終末期をこんな風に具体的にイメージしておくべきなのか、と目から鱗が落ちる思いでした。

著者は従来の医師は家父長型、情報提供型だったが、今後は、それらの情報が医師にとってもつ意味を伝えることが必要だと言っています。カウンセラーのように相手が聞きたいことを問い、答えを伝え、そしてどう受け止めたかを問うことができる医師です。私自身の体験からも、これからの医療教育には傾聴力、説明力、つまり対話の能力を育成することが不可欠だと考えていたので、同感です。しかし日本の医者は忙しすぎます(もしくは、そう振る舞うように習慣づけられています)。看護師がもっと自立した役割を担うようなシステムに切り替えていくことも必要ではないでしょうか。

みすず書房の清潔感ある装幀も好ましく、何より読みやすい。いま介護問題を抱えている人、やがて抱えることになる人、まもなく自分が介護され終末期を視野に入れなければならない人にお奨めします。必読、と言ってもいいくらいに。

 

民族文化の会

(諏訪春雄主宰)民族文化の会 平成29年度12月例会 

 日時:12月24日(日)14:00(13:30開場)

 会場:黛ホール(港区赤坂3-10-3黛ビル4階 地下鉄赤坂見附10番出口から           

         徒歩2分)

 参加費:(茶菓代)¥1000

第一部 講演「源平盛衰記平家物語祇王説話をどう読むか(仮題)」 松尾葦江

第二部 前田流平曲(解説と実演)

      「葵前」 荒井今日子

      「二度懸」 鈴木孝庸

 問い合わせ先:070-6980-7123(一ツ目弁天会・荒井)

慰霊祭

学部時代の母校の同窓会が主催する慰霊祭に、初めて出ました。卒業生の中には戦争未亡人や単身で亡くなる人も多いため、年1度、同窓会館で、母校の教官や卒業生の物故者を送る会が行われるのです。太平記研究の鈴木登美恵さんが昨年8月に亡くなったので、お別れに行きました。壇上には物故者名簿と白やピンクの花が飾られ、女声合唱とピアノ演奏の中、参列者1人1人が献花をしました。

最後に遺族たちから、101歳で亡くなる間際まで数学の難問の解き方を家族に教えていたとか、NHKで初めて管理職になったアナウンサーだったとか、敬意を籠めた思い出が語られたのですが、役員のみならず参列者たちが一斉に、熱心にメモをとり続けたのには吃驚、まるで学会会場のようでした。

鈴木登美恵さんは戦後の太平記研究、殊に諸本分類を確定されたことが大きな業績ですが、論文の殆どは30代、定時制高校教師をしながら書かれたもので、後年の40年ほどは書かずに男性研究者たちを配下に置かれていました。学位論文を、と随分お勧めしましたがついにお書きになりませんでした。しかし以前、長坂成行さんが、著作集は俺が出すと宣言していましたから、まもなくお仕事の全貌を見ることができるでしょう。

小石川の通りには冷たい小雨が降って、ハナミズキの並木の紅葉が始まっていました。

物語の必然性

友人から借りた2冊目のカズオ・イシグロ作品『わたしを離さないで』を読みました。読了後、しばらく考え込んでしまいました。この小説に、主人公たちが臓器提供のためのクローン人間として生まれ育てられたという設定は、果たして必須のものだろうか?mortalであることが通常よりも重く横たわっている、には違いありませんが・・・全体をつつむ不安と悲愁と諦念は、ほかにもあるなあ、と思って記憶を探ると、60年以上前の結核病棟の雰囲気が似ているかも知れない、と気がつきました。

寄宿制が日本ほど珍しくはない英国での、一種の青春小説として読めなくもありません。じっさい、学園小説によくある場面や挿話が巧みな語り口で語られています。細かな伏線が後半でスイッチするように張り巡らされていて、ミステリー小説のようでもあります。近年、日本でも、子供同士が殺し合ったり学園時代の失踪が後日に事件になったり、不気味な設定の小説が流行るのは、時代性なのか、ぞれとも作品同士の影響関係があるのだろうかという疑問も浮かびました。

日の名残り』でもそうでしたが、人生にはあのとき異なる選択をしていたら・・・とふり返りたくなることが幾つかあるものです。この作品は一種の三角関係が核になっていますが、「老後がない」という設定以外はなくても十分成り立つストーリーでしょう。それでもやはり、この設定が物語にとって必要だったのか・・・現代小説の担う宿命について考えさせられました。

衝撃的な幕切―トミーの幻が顕れる場面では、思わず胸が迫りました。限られた人生における「教養」の意義や、慈善事業をする側の心理的負担といった派生的な問題も、考えさせられたことです。次回は日本について書いた作品を読んでみようと思います。

硝子のハイヒール

今回の選挙報道で、「ガラスの天井」という言葉を使った人が複数いました。1人は巴里でインタビューに答えた人、ほかにもべそを掻きながらそう言った落選女性議員がいました。違うだろ!私は憤慨しています。

「ガラスの天井」という語は、ある程度女性の社会的活躍が進んでからの微妙な情況を、巧く表現した語です。制度的には平等が保障されているが、しかしいま1歩のところで中枢には届かない。誰に責任を問うことも出来ず、つまりは本人の能力と廻り合わせによるのか、と思わせる、微妙な場合を表現できる語だと私は思っています。そしてこれこそが最も問題だと感じている女性は、いま多いのではないでしょうか。

微妙な問題をとらえる語は大事です。その言葉がぼやけてしまうと肝心の問題もとらえられなくなる。今回の例はどちらも本人の過ち、もしくは本音が露顕したのであって、各人でその責任を負うべきことがらです。「ガラスの天井」とは違います。知恵を絞って、機会を逃すまいと、日々がんばっている同性の足もとを崩さないで欲しい。

「ガラスの天井」の反対語は何だろうと考えてみました。「ガラスの地下室」ではありますまい。ガラスの靴―同性たちに邪魔されながらも男性に認められ、目に見えない後押しを受けて成功を手にする女性の物語。これもまた微妙な情況ですね。ピンヒールはやめておいた方がよさそうです。

やまぼうし

新しくなった児童公園に、区がヤマボウシの木を植えました。樹下に赤い実が落ちているので拾ってみると、外観は茘枝のようですが、ぶかぶかした果皮の中にねっとりした黄金色の果肉が入っている。食べられるかも、とひらめき、1個持って帰ってネットで調べたら、美味しい、ジャムにもなる、とあります。さっそく洗って食べてみました。野生の青臭さはあるもののみずみずしい甘さで、種子が1つ出て来ました。ちょっとざらつく食感がありますが、子供の戸外のおやつにはなる。

ついでにイヌビワをネット検索したら、これもジャムにできる、とあります。この辺ではあちこちにあって、邪魔者扱いされている木です。無花果の仲間だということは知っていたのですが、先日1個食べてみたところ、甘さが薄く、食用にはならないと思っていました。これでジャムを作るには、よほどたくさん集めないといけません。

鳥たちが運ぶのか、イイギリやミズキ、櫨、それから桐の木の実生が道路脇のあちこちに芽を出します。桐の実は油が多く、イイギリやミズキは赤いつぶらな実が美しいのですが、これらは鳥にならないと食べられない。

椎の実が食べられることはこの頃知られていないようですが、子供の頃、祖母が焙烙でゆっくり炒ってくれました。殻を剝くと、白くてうす甘い果肉がちょっぴり入っています。子供心にも、手のかかる割にちょっとしかない楽しみなんだなあと思いました。名古屋の桃巌寺の塀沿いには、ざくざく積もるほど椎の実が落ちていたことを思い出します。地球の砂漠化を防ぐために、椎の実や団栗を苗木に育てて送り出す運動があるのに、勿体ないなあと思いながら通っていました。