物語の必然性

友人から借りた2冊目のカズオ・イシグロ作品『わたしを離さないで』を読みました。読了後、しばらく考え込んでしまいました。この小説に、主人公たちが臓器提供のためのクローン人間として生まれ育てられたという設定は、果たして必須のものだろうか?mortalであることが通常よりも重く横たわっている、には違いありませんが・・・全体をつつむ不安と悲愁と諦念は、ほかにもあるなあ、と思って記憶を探ると、60年以上前の結核病棟の雰囲気が似ているかも知れない、と気がつきました。

寄宿制が日本ほど珍しくはない英国での、一種の青春小説として読めなくもありません。じっさい、学園小説によくある場面や挿話が巧みな語り口で語られています。細かな伏線が後半でスイッチするように張り巡らされていて、ミステリー小説のようでもあります。近年、日本でも、子供同士が殺し合ったり学園時代の失踪が後日に事件になったり、不気味な設定の小説が流行るのは、時代性なのか、ぞれとも作品同士の影響関係があるのだろうかという疑問も浮かびました。

日の名残り』でもそうでしたが、人生にはあのとき異なる選択をしていたら・・・とふり返りたくなることが幾つかあるものです。この作品は一種の三角関係が核になっていますが、「老後がない」という設定以外はなくても十分成り立つストーリーでしょう。それでもやはり、この設定が物語にとって必要だったのか・・・現代小説の担う宿命について考えさせられました。

衝撃的な幕切―トミーの幻が顕れる場面では、思わず胸が迫りました。限られた人生における「教養」の意義や、慈善事業をする側の心理的負担といった派生的な問題も、考えさせられたことです。次回は日本について書いた作品を読んでみようと思います。