平治の乱の謎

桃崎有一郎さんの『平治の乱の謎を解くー頼朝が暴いた「完全犯罪」ー』(文春新書)を買ってきて読みました。面白かったので一気に読みました。

平治の乱には謎が多い。当時の日記類も何故かその部分が欠けていて、それは偶然ではない(記録を残してはまずい理由があった)のではないかと囁かれてきました。桃崎さんは軍記物語には信憑性がないとして殆ど参照しませんが、平治物語は軍記の中でも殊に、事実との近さを見せるくせに記述に謎が多い、という印象を与えます。信西の最期や後白河院の幽閉場所などがその例ですが、二条天皇後白河院との不和に関する記事がちら見えるのもその一つ(これは平家物語も同様)です。

私は平治の乱に関する記録類が抹殺されたのならば皇室関係に原因があるだろうとは思っていました(ほかに考えられない)が、平治物語に見える信頼の不敬行動がそれを暗示しているのかなと考えてきました。桃崎さんは、平治の乱二条天皇が命じたクーデターだったのだと言うのです。

根拠とされた玉葉愚管抄を読み直してみました。誤読もあるようです。まず頼朝の言は後付けでもあり、交渉カード呈示でもあるので、そういう目で読みたい。「彼忠又不空」は、義朝の忠義は空しくはならなかった、「仍頼朝已為大将軍」は、だから私は大将軍になれるのです、では(本書p331。この時点で頼朝は未だ将軍にはなっていない)。愚管抄の信頼評「サ云バヤハ叶ベキ」は願望の終助詞ではなく強い否定(反語)の副詞です(古典大系p236、本書p219)。

幾つか謎に見えていたことを、桃崎さんが大胆に解明(説明)したことも確かです。ただ全体としてはどうなのか、日本史の方ではすでに議論があるのかしら。何故二条天皇が信頼を選んだのか、という最大の疑問が蟠ります。

本書は桃崎本平治物語です。軍記物語研究者には必読を勧めます。平治物語研究は30年近く停滞してきました。乱全体に関して大胆な仮説を立て、平治から治承の平家政権、頼朝復権までを連続させて展望したことに、軍記研究者は喝を入れられたと受け止めるべきです。軍記物語講座を編んだ時、平治の乱以後、平家物語が語る以前の時期の人脈に注目したいと考えて、複数の方にオファを出したのですが、底意が理解されませんでした。軍記物語が何を切り落として歴史を組み立てているか、そこに構想論の必要性がある。