山びこ学校

『山びこ学校』の教師として知られた無着成恭さんが96歳で亡くなった、という新聞報道を見て、16歳しか年上でなかったことに驚きました。子供の頃、いとこの誰かから譲られた『山びこ学校』(青銅社 1951)を何度も読み返しました。あの頃、本は父親が与えてくれるか、年長のいとこたち(父方にも母方にも沢山いた)のお下がりかだったのです。「幼年クラブ」の公告で見た本を取り寄せるようになったのは、もっと後でした。

山形の山村の学校で綴られた文集は、小学校低学年だった私には、随分大人の文章のように思えましたが、中学だったのですね。冬の厳しさ、家族労働や食糧調達の重圧、しかしそれを綴る中に巧まぬ詩情が溢れていたことをよく覚えています。生徒たちにもそれぞれの事情や個性があって、すべてが自然に受け入れられ、惨めな感じは受けませんでした。煙草農家が多いらしく、乾燥させた葉を1枚1枚家族総出で手のししたり、山で捕らえた兎を解体したり、栗の木を伐って工作をする描写などは今も印象に残っています。

調べてみて、無着さんが国語の教師でなく社会科教師だったことを知りました。師範学校を出てすぐ赴任した中学で、学級文集「きかんしゃ」を出し続け、それをまとめたのが『山びこ学校』だったのだそうです。ベストセラーになり、映画化もされ、一種の教育運動のようになった時期もありましたが、私は勝手に、あの地域、あの先生だからできた教育だ、と思い込んだようでした。鳥取大学時代の同僚菅原稔さんが、「岡山大学大学院教育学研究科研究集録」138号(2008)に紹介を書いていることも初めて知りました。

東京で明星学園に勤めた無着さんに会ったことがあります。中学から何かの代表でNHKの番組に出演した時の司会者でしたが、いま数えると30代だったのですね。紛れもないオッサンでしたが。今日明日が通夜と葬儀だそうで、愛読者のゆかりで、合掌。