カーキ色のカーテン

ある時(中東戦争の後だったかもしれません)、父がぽつりと、日本はもう戦争はできないだろう、今の若い人たちには軍隊のあんなつらさは我慢できないから、と言ったことがありました。彼は会計将校ながら従軍経験があったのです。

これからはボタン戦争なのに、とその時私は思いましたが黙っていました。彼がなぜ突然(と私には思えた)そんなことを言うのか、よく分からなかったのです。いま思えば、経済人として戦争の匂いを身近に感じる理由が、当時あったのかもしれません。

自衛隊の射撃訓練で起こった事件の報道に、慄然としたのは私だけではなかったでしょう。事件の詳細は未だ分からないので、憶測は慎みたいと思いますが、愕然とした理由はほかにもありました。まずあんなに住宅が近い所に、射撃訓練場があるということ。次にAEDを借りに隊員が近所を尋ね回ったということ。そして事件直後、建屋の外で大の男たちが抱き合って号泣している映像。両脇から抱えられて歩く隊員もいました。彼らは何故泣いていたのか。仲間を喪った悲しみにしては早すぎる。衝撃、緊張のあまりなのか。

リアルに言えば、彼らの射的の向こうには、敵の戦車や船、そして生きた人間がいるのです。私たちもそのことを直視すべきなのかもしれません。災害時に身を粉にして働いてくれ、助けに来てくれる、そういう顔だけを予想していていいのか。ウクライナで戦争が始まり、現代でもボタン戦争ではない、消耗戦を私たちは見せつけられています。積算根拠が不明なまま防衛費の巨大な増額が決まった時、元自衛隊幹部が、実戦で最も必要なのは弾薬なんだ、と言ったので、その後ろには兵士が必要であることを実感しました。カーキ色のカーテンで見えない部分が多すぎる、あるいは平和憲法でカバーを掛けた「我々の」軍隊。まっすぐにみつめる義務を我々が自覚すべき時期に来ています。