天正本太平記の合戦場面

和田琢磨さんの論文「天正本『太平記』における節略本文の検討―合戦場面を中心に―」(「早大大学院文学研究科紀要」68)を読みました。和田さんは昨夏にも「天正本『太平記』の節略本文をめぐる一考察」(「古典遺産」71)という論文を書いていて、本ブログでも今年1月に紹介しましたが、その続編のようです。増補改訂という観点から諸本の性格を論じることが多かった従来のやり方を踏まえた上で、天正本の「節略」(この語を使い始めたのは和田さんからでしょうか。私は「抄略」という語を使ってきたのですが、編集者から「省略」の誤りではないかと注意されたことがありました。大きな辞典には載っている語です。抄略というと、大量の文章から抽出する、というニュアンスがあります。和田さんは、「節略」を適当に略すという意、「適当」は十分に考えずに[いわゆるテキトー]の意を含むものとして使っているようですが、果たしてどうでしょうか。「節」はほどよく省くの意。一般化できる用語が欲しいですね)を考察しました。

天正太平記と織田本(古態本とされる西源院本系の善本)から10例の合戦場面を比較し、天正本が筋立て中心に、詳細な描写や人物の会話、挿話などを不用意に削って、文脈に矛盾が生じたり、他の部分とは一致しなかったりという結果をもたらしたことを指摘し、これが南北朝・室町の物語の自然な姿なのではないか、様々な性格の改訂部分が鏤められて出来上がった本として天正本を見るべきだと主張しています。

偶然かもしれませんが、我が意を得たり、と思いました。ちょうど長門本平家物語をそういう観点から見ることによって、諸本論の混迷、行き詰まりに風穴を開けることを考えていたからです。室町の物語を、現代の研究者や文芸批評の価値観で評価してきたことの虚しさ、見落とすことの大きさ、そこに注目して新たな道を拓きたい。