記者の素質

20年前に父が亡くなった時、事に当たるのは私1人で、てんてこ舞いでした。会社と家との合同葬だったので、葬儀は何もかも会社が手配してくれたのですが、私は彼の仕事上のおつき合いを把握してはいないので、突然のお悔やみや問い合わせ電話に対応しきれない。病院から帰ってきてすぐ、大手経済紙の記者を名乗る電話があり、うちは死亡記事もウラを取るんですよ、と得意げに言い、青山斎場の番地を訊かれました。呆れて、葬儀の日時を告げた後、番地は自分で調べなさい!と言って切りました。

殺人事件じゃあるまいし、ウラを取るって何だーでも先方の非常識ではあるものの日本一の経済紙と喧嘩したわけなので、会社の秘書課長に事情を説明しました。新聞社の死亡記事は社会部の1年生が担当するので、そういう失礼がある、こちらから経済部に話しておく、と引き取ってくれました。

著名な歌手と俳優の一人子の突然の死(私はあの歌手が好きではありませんでしたが、「青い珊瑚礁」や「スイートメモリー」など、いい曲を歌うと思っていました)に、今は老いた、かつての夫婦が骨箱と位牌を抱いて臨んだ記者会見。彼女は深々とお辞儀をした後、急には頭が上げられませんでした。そのまま崩れ落ちるのではないか、と映像を視ていても思いました。かつての夫も思わず振り向いたくらいです。立ち去る背後から投げかけられた、いまのお気持ちは?という定番の質問に、ウェブ上で非難が集まっています。

しかしあれは思いやりや礼儀の問題ではなく、記者としての素質、能力、もしくは社の育成方法に問題があるのでは。上記3行の場面に居合わせただけで、芸能記者なら充分記事を書けたはず。私がデスクだったら、毎日欠かさず1年間、記事1本分の文章を書いてこい、という課題を課します。