元暦元年(1184)3月、平家一門のいる屋島から脱出して紀州へ入った維盛主従は、ある人物を訪ねるために高野山へ向かいます。
【高野山 根本大塔】
高野山は、平家にゆかりの深い地です。若き日の清盛が安芸守の時に、高野山大塔の修復を命じられます。この時、清盛は、金堂の東曼荼羅を自筆で描きますが、宝冠の部分は自分の頭から出した血で描いたとされ、「血曼荼羅」と呼ばれています。
【高野山 熊谷寺】
一の谷合戦で敦盛を討った熊谷直実は、後に法然のもとで出家して蓮生と名乗りますが、その後、高野山の蓮花谷で敦盛の霊を弔ったと伝わります。奥の院には、直実と敦盛の供養塔もあります。
【西行桜】
西行も高野山に入っています。大会堂造立奉行として登山した際に、山桜の木を植えたという伝説があります。
【丹生官省符神社】
高野山の起源については、入唐した空海が日本に向けて三鈷杵を投げた話が有名です。帰国後、空海が聖地を求めて高野山に入ると、白と黒の二匹の犬を連れた猟師(狩場明神)に出会います。その猟師の導きにより、自分が投げた三鈷杵が松の木にかかっているのを見つけます(「三鈷の松」として高野山の壇上伽藍に残っています)。『源平盛衰記』では、丹生明神(狩場明神の母とされる)が導いたとあります。