中世芸能の異性装

辻浩和さんの論文「中世芸能の異性装」(「アジア遊学」 2017/6)を読みました。12世紀から13世紀にかけて流行った白拍子の男装は、じつは男装としては不完全なものであったと述べています。鎌倉時代になって白拍子は、成人男子の身分標識であった烏帽子・腰刀を省略するようになり、白拍子舞を立って舞う時には水干を着たが、座って歌謡の白拍子を歌う時には必ずしも着用していないことを指摘、さらに16世紀頃の「職人歌合」には長袴・結髪の白拍子女が描かれており、この姿は女性装と見られるとしています。

そして、男性貴族の遊興の場で宮廷女房が男装させられる日記記事を参照しながら、白拍子女の男装は、顧客たちの好尚に合わせた、一種の風流(ふりゅう。何かを何かに見立てて人を喜ばせる趣向のこと)であったとして、遠く阿国歌舞伎につながる、女芸人の男装の系譜をたどって、各種芸能の盛衰を解明してみたいと結んでいます。

歌謡白拍子の史料上の初出は仁安元年(1166)11月頃、白拍子女の史料初出は嘉応元年(1169/11/26、『続古事談』巻2ー49話)だということで、まさしく平家の上昇期、平家物語の「我身栄花」に描かれる時期であり、「祇王」説話のもつ意味の深層を、改めて考えてみようと思いました。