風になる

肉親を亡くした時、教え子の1人から「自分も姉を亡くしたときこの詩に慰められました」という手紙と共に、1枚のカードが送られてきました。それには英語で、

Do not stand at my grave and weep,

で始まる短い詩が印刷されていました。死者が、自分は風になって、そこらじゅうにいるよ、と遺された者に告げる詩です。シンプルな表現がしみじみと身にしみました。ささやくように、呟くように、幽明界の合間から話しかけてくる。邦訳もついていたと思いますが、英文の方が率直、平明な感じが遺族への思いやりにふさわしい。

東北大地震の後、この詩が作曲され、オペラ歌手がヴェルカント唱法で、ジェスチャーいっぱい、目をむいて歌うのを見て、ちがうちがう、と叫びたくなりました。耳元でささやくか、風の中から聞こえる詩なんだ、と抗議したい気持ちでした。

今はもう慣れたので(歌手も前ほど力まなくなった)、あれは別の歌曲だという気になりました。東北大地震の後に、地鎮という行為がほんとうにあるんだと実感したのは、白鵬の土俵入りと羽生結弦の「花は咲く」のスケーティングでした。横綱白鵬の土俵入りを観客が拝んだ話は有名ですが、羽生結弦の力をこめたステップと、やさしく大地(実際は氷面ですが)を撫でるしぐさに、反陪を踏む三番叟を連想しました。かのオペラ歌手も、歌い始めた当初は、大地の神を圧倒する構えだったのかも知れません。