もぐり受講・その1

学部時代、近代文学の授業が少なくてもの足りなかった(当時は未だ、近代文学は研究の対象ではない、という考えがありました)のに、隣接の教育大学には有名な吉田精一先生がおられました。3年の新学期、数人で示し合わせて吉田先生の講義(文学史だった)に潜り込みました。『芥川龍之介』伝で憧れていた私が、張本人だったかもしれません。

まず時代区分から話が始まり、近世から明治の話になり、遊女評判記の話題なども出ました。先生は時々アブナイ話をチラ見せされる(吉田先生の艶笑譚好きが有名だったことは後で知りました)のですが、教育大では1年用なので誰も理解できず、私たちは近世文学特講を聞いているので、一列赤くなってうつむく。そのうち、教大生たちが大教室でも座れず、立ったままノートを取っているのを見て気が引け、やめました。

4年になって、東洋史特講(歴史学科の専門科目)、比較音楽(音楽科)、英作文(英文科)も登録して受講しました。アジア問題の専門家になりたかったからです。また上級生から、4年次は卒論と就活だけなので、何か講義を受けていないと精神的につらいよ、と助言されてもいました。東洋史は前期が東南アジア史、後期はスジャラムラユ(マラヤ年代記)の研究で、小泉文夫さんの比較音楽は、主に印度音楽でした。どれもきつかったが面白かった。マラヤ年代記は、いきなりマラヤ語の資料が配られ、それを読解していく授業だったので、レポート提出はどうしたらいいか、先生(生田滋さんです)に相談に行ったら、最初はいやな顔をされましたが、ヒントを下さり、A評価を貰いました。比較音楽についてはあまりに面白かったので、また別に書きます。

要は、本気で受講したかったら、担当教員に直接相談に行くのが礼儀でしょう。カードリーダーは壁にくっついているだけで、何も邪魔はしません。

研究報告会準備

炎天下、明翔会事務局を引き受けてくれている小野寺さんが、赤ちゃんを連れて、来春の研究報告会のうち合わせにやってきました。義妹の嫁ぎ先へ挨拶に行って、スウェーデンから帰国したばかりだそうです。8ヶ月のリンちゃんは、好奇心の塊。はいはいでどこへも行き、何でも舐めてみて確かめます。つかまり立ちできる一歩手前なので、助けて立たせてやると大喜びします。表情が変わるのを見ていると飽きません。

小野寺さんはいま有期雇用の国家公務員ですが、1年間の育休を貰えたそうで、現在はリンちゃんが片時も放してくれないけれど、勉強にも仕事にも早く復帰したいとのこと。体力と気力は抜群だし、話のテンポは速くないが言葉の出る速度がはやい。私も久しぶりでかつてのスピードを取り戻しました。大学は(女子大でさえ)、やっと教職員のための子育て支援制度を始めたが、研究生や学生はそれらの制度・施設からは閉め出されている、という話で盛り上がりました。

来春、3月14日には明翔会の第3回研究報告会が予定されています。これから会場を確保し、専用サイト(開設されたが未だコンテンツがない)でも発表者募集をするそうです。現在の案は以下の通りです。

3月14日(土) 会場未定

 10:00 開会 発表4名(各発表20分、質疑応答5分)

 11:55~13:30 昼食休憩

 13:30~14:30 発表2名(各発表20分、質疑応答5分)

 14:30 総合討論

 14:40~15:50 記念講演

 15:50 閉会挨拶

発表者2名を募集しています。松尾金藏記念奨学基金を受給した人なら応募できます。申し込み・お問い合わせは meisyokai@gmail.com まで。

 

遙かな海と空に

宮古島からマンゴーが届きました。真っ赤な果実の一部がぽっと紫がかって、工芸品のような美しさです。早速、仏壇に上げました。明日はフィリピンのミンダナオで戦病死した叔父の命日。以前、本ブログにも書きましたが、終戦の6日前に亡くなった通知だけで、骨箱は空っぽでした。

我が家では殆ど思い出話は出ませんでしたが、いよいよ南方に発つ前夜、僅かな時間の帰宅が許されると聞いた祖母は、隣近所に頭を下げて砂糖を分けて貰い、好物のおはぎをどっさり作って徹夜で待ったのに、とうとう帰って来なかったそうです。後日に聞いた話では上官が、里心がつくとよくないと帰宅を禁じたとのこと。戦況が悪くなっていることは、うすうす知られていたのでしょう。

我が家での供養についてもすでに書きましたが、父亡き後、叔父の顔も知らない私は、機会があればミンダナオへ挨拶に行きたいと思っていました。しかし彼地の治安が悪く、機会が得られぬまま私も年をとり、それは叶わなくなりました。遺骨は野戦病院の庭にでも埋められたのでしょうか。掘り起こして連れ戻したいとは思いません。もう故郷よりも彼地での時間の方が永くなり、叔父の魂は、ミンダナオの海と森を俯瞰しているのであろうと、私は思っています。

遺骨を取り違えるくらいなら、もう彼地で安らかに眠って貰う方法を考えた方がいいのではないでしょうか。取り違えられた異国人の遺骨も浮かばれません。私たちが彼地へ出かけて、故人の目で海と空を眺め、せめて水と塩(あるいは酒)とを持参して供養しては如何でしょうか。その時故人の魂は、天翔って故郷へも往来できると信じて。

我が家の仏壇には、知人・親族から贈られたプルメリア朝顔の紙細工が飾られ、南国と日本の夏が溢れています。叔父さん、ミンダナオはどうですか?

写本の事情

昨日に引き続き、終日、写本の様態を細かに観察してはメモを取りました。遠くから聞こえる列車の音、よく手入れされた古い調度品、静かで丁寧な応対・・・わけあって、始めるまでは気の重い調査でしたが、2日間、3人が異なる角度から調査した結果、どうやら独自の問題提起が可能になりそうな見通しが立ちました。書写は、ただ情報を複製するだけではありません。それぞれの書写目的や書写者のレベルが反映され、写本ごとの諸事情が、紙面に刻み込まれています。どこまでそれが読めるか、に集中した2日間でした。

裏付けはこれからだし、調査も全部終わったわけではないのですが、とりあえず進む方向は見えてきて、今後のプロジェクトの日程も相談でき、とにかく現物に向き合えば、何かしら方針が見えるものだ、と痛感しました。

日頃入ったことのない店で、昼食にはキッシュやオリーブのパイでアイスコーヒーを、夜はムール貝やピザで麦酒を、という新体験もしました。大学業務や予備校事情、学会や出版社のあれこれ噂話も出ました。帰宅したら、美しい半月が出ています。郵便受けには再校ゲラ、メールを開ければ添付ファイルで、遅れた原稿が届いていました。出雲の実家へ里帰りしたという友人のメールには、蕎麦の食べ歩きをしたとありました。

冷房に入っていた日は、夜や翌朝がつらい。もう数日は35度らしいのですが、明日から酷暑の東京で、頑張るぞ!

8月6日

出かける直前、TV中継が広島から始まりました。台風の影響か、雨天だそうです。川の街広島を初めて訪れたのは、56年前、幼なじみの友人と一緒に、夏の暑い日でした。原爆ドーム原爆資料館、そして人影の灼き付いた石段も見に行きましたが、いま思えば未だあの頃は、よそ者には原爆の怖さが十分には解っていなかったと思います。何となくしんとしながらも、赤い夾竹桃の並木を通り抜け、私たちはすぐに姫路城や鳥取砂丘へと移動して行きました。

遺児の鳴らす鐘の音に黙祷し、子供たちのまっすぐな誓いの言葉に刺されながら、あの友人も40年前に亡くなったことを思って、ヒロシマの重さが年ごとに増して来るのを感じました。

東京は35度になるという予報の、晴れ上がった朝。お茶の水駅で待ち合わせしました。予備校の夏季講習なのか、人波が途切れません。共同研究のメンバーと共に、終日写本の墨色を確かめてはメモを取りました。私心なく実物を見ることによって、証明困難な事態を推理する糸口を捜す作業ですが、やっていれば心に充ちてくるものがある。前途遼遠ではあっても、新たな推理は可能な気がしてきました。

帰宅したら、原爆資料館の新方針による展示替えの特番が放映されていました。名も記録されない多数の死から、個々の生の具象化へ―それが記憶を風化させない方法の一つなのでしょう。白い川砂と赤い夾竹桃の街に降り注ぐ熊蝉の蝉時雨。燃え続ける献火の向こうに揺らぐ「過ちは繰り返しませぬ」の文字。飲ませてやれなかった悔いをこめて捧げられる水・・・何よりも、死者のことを語る物語が、せめての鎮魂になりますように。

軍記物語の絵画化

石川透さんが花鳥社のサイトに、「軍記物語とその絵画化」というコラムを書いています(https://kachosha.com/) 。 この半世紀の間に、軍記物語の絵画資料がよく知られるようになりました。私も以前は近世の絵画だから、と見向きもしなかったのですが、編集者の問い合わせや、奈良絵本源平盛衰記が市場に出た時の経緯(何かの月報に書きました)、TV番組に出演する際の必要などからしだいに関心を持つようになりました。長門本の悉皆調査のために、30冊本の平家物語について問い合わせして、真田家旧蔵の奈良絵本平家物語に出会ったこともありました。

石川さんのコラムには、太平記源平盛衰記平家物語・保元平治物語・幸若などの絵巻と絵本が取り上げられていますが、ほかに扇面絵や屏風などもあります。金や濃彩の美しいものが多く、衣装の文様や襖絵などが精密に描かれ、武士社会での一種のステイタス・シンボルだったかと思われます。職人を抱えた工房で、(ちょうど現代のアニメスタジオのように)分担作業で制作されたらしい。

必ずしも軍記物語の本文通りではなく、芸能や伝説などの挿話が取り込まれていることもよくあります。後に絵巻を寸断したり、絵本をばらして売ることも多かったようで、現代でもそれらは市場に出て来ます。

コラムに付せられた3枚の画像は、いずれも石川さんのコレクション。平家物語「大原御幸」の1枚は、後白河法皇と阿波内侍が室内で対面している所へ、供花を摘みに行っていた建礼門院と大納言佐が山から降りてくる場面。人気のあった場面です。保元物語の方は、2枚とも源為朝の後日譚。入浴中の為朝が追手に囲まれ大暴れする場面と、伊豆大島へ流された為朝が、追討軍の船の吃水を矢で射貫き、最後の抵抗をする場面です。軍記物語講座第1巻には、保元平治物語の絵画資料研究も載る予定です。

 

楠公飯

京アニメ関連のニュースを見ながら、つくづく思ったのは、アニメ―ションという媒体がいかに時代を変えたか、でした。あんなに多くの人たちが泣きながら「救って貰った」と述懐するほどの影響力をもつ文学が、同時代にいまどれだけあるでしょうか。未だにサブカルチャーのイメージをぬぐえない世代(第一、画は文章ほど速く読めない)ですが、恐れ入った、という感がしきりです。

しかしアニメの危うさもまた、ある―昨夜、話題のアニメ「この世界の片隅に」をTVで視ました。広島から呉へ嫁いだ絵を描くことが好きな女性が、戦時中の嫁の苦労をしのいで生き抜く話。当時の日本がよく描かれている(終始受け身の女主人公を始め)と思いましたが、ふと、これは戦争協力映画にも使える、と思いました。苦難はいつも、そこら中にある、その中で、自分の感性と勤勉さで日々を僅かでも楽しくしていく女性は、知らぬうちにいい男たちから愛され、敵対者も折れ、代替の幸せが手に入る・・・菫の味噌汁なんて、ちょっとよさそうじゃないですか(我が家は草を食べはしませんでしたが、当時食用と言われた草、例えば藜などは決して美味しいものではありません)。

あの頃周囲を取り巻いていた死の臭い、それぞれの家の女たちが胸中に圧し殺していた悲しみ、不条理な号令や怒号、それらは画の中からは起ち上がってきません。そこには一種の静謐さがあり、画面上に温順しく収まっています。だから多くの共感を得られるのでしょうか。誰もが自分を投影しつつ、でもちょっと高見の位置を保てる。

楠公飯というものを初めて知りました。太平記万葉集と並んで、さきの大戦で最も声高に政治利用された文学です。しかし、作品そのものに好戦的な意図はない。文学研究者の仕事が問われます。作品を非難する前に、悪用された過程をつぶさに開示すること。