楠公飯

京アニメ関連のニュースを見ながら、つくづく思ったのは、アニメ―ションという媒体がいかに時代を変えたか、でした。あんなに多くの人たちが泣きながら「救って貰った」と述懐するほどの影響力をもつ文学が、同時代にいまどれだけあるでしょうか。未だにサブカルチャーのイメージをぬぐえない世代(第一、画は文章ほど速く読めない)ですが、恐れ入った、という感がしきりです。

しかしアニメの危うさもまた、ある―昨夜、話題のアニメ「この世界の片隅に」をTVで視ました。広島から呉へ嫁いだ絵を描くことが好きな女性が、戦時中の嫁の苦労をしのいで生き抜く話。当時の日本がよく描かれている(終始受け身の女主人公を始め)と思いましたが、ふと、これは戦争協力映画にも使える、と思いました。苦難はいつも、そこら中にある、その中で、自分の感性と勤勉さで日々を僅かでも楽しくしていく女性は、知らぬうちにいい男たちから愛され、敵対者も折れ、代替の幸せが手に入る・・・菫の味噌汁なんて、ちょっとよさそうじゃないですか(我が家は草を食べはしませんでしたが、当時食用と言われた草、例えば藜などは決して美味しいものではありません)。

あの頃周囲を取り巻いていた死の臭い、それぞれの家の女たちが胸中に圧し殺していた悲しみ、不条理な号令や怒号、それらは画の中からは起ち上がってきません。そこには一種の静謐さがあり、画面上に温順しく収まっています。だから多くの共感を得られるのでしょうか。誰もが自分を投影しつつ、でもちょっと高見の位置を保てる。

楠公飯というものを初めて知りました。太平記万葉集と並んで、さきの大戦で最も声高に政治利用された文学です。しかし、作品そのものに好戦的な意図はない。文学研究者の仕事が問われます。作品を非難する前に、悪用された過程をつぶさに開示すること。