ゆとり

ゆとり教育の検証が取り沙汰されています。1980年代、詰め込み教育とか暗記主義、知識偏重と批判された従来の教育を大幅に変えようという方向で、学習指導要領の定める基準線が下げられ、週休2日制が導入され、一般には、学ぶ内容が少なく、薄くなったのだという眼で見られました。「ゆとり世代」という語が生まれ、そう呼ばれる世代は、何となく、学力や学習意欲の低い者たちと見られてきたという意識があるようです。

当時、小中の学校現場は、総合学習という科目にとまどっていました。今となってみれば、それなりに実績があったのではないでしょうか。この頃流行っている、アクティブ・ラ-ニングの基盤にもなった、と。また部活や稽古事が盛んになったのも、ゆとり教育以来かもしれません。但し、部活を指導する教師の負担が重くなり、家庭の経済力によって稽古事に行けるかどうかの差が出たことに、対応できていないのは残念です。

しかし、最もゆゆしきことは、家庭学習の習慣が殆ど絶滅してしまったことでしょう。2000年代の後半から大学生の質が暴落した、とは、後になって振り返って痛感されたことです。語学でさえも予習復習をして来ない。辞書を持ち歩く習慣もなくなった。それでどうやって、大学の文系の授業が成り立つでしょうか。勿論、そうでない大学もあったでしょうが、おおかたの大学教師には思い当たるふしがあるはずです。

つまり、ゆとり教育に移行するに当たって、家庭事情や一般社会の動向にまで考えが及んでいなかったことは、痛恨の一事だったと思います。ライフサイクルや職業などの価値観の変化も視野に入れて設計すべきだったのではないでしょうか。

なお私は、詰め込みや暗記によって基礎知識の最低水準が保証されることも、ある程度初等教育の効用として重要だと思っています。

かつての同僚

30年前の同僚の御子息から葉書が来ました。父君はあの当時、理科教育の教授でした。昨秋から夫婦で介護施設に入り、仲良く暮らしていたが、今年初めにインフルエンザに罹って体力が落ち、春に93歳で亡くなった、科学を学んだ者なので、死後は原子に戻るからと、仏壇も墓も作っていない、という文面です。

私がその職場へ赴任して2年後、教授会で、ある助教授が演説をぶちました。国立大学は教授、助教授、助手などのポストの数が制限されていて、資格は満たしていても教授ポストが空かないと昇任できないのですが、その演説は、このままでは自分は老後の年金額にも響く、という露骨な内容でした。私は顔を上げられませんでした。ちょうど私の前に座っておられた教授が、該当ポストで、定年1年前だったのです。教授は黙って眼を閉じて聞いておられました。まもなく、その教授の退職願が出されました。定年1年前でも、依願退職者には、退職金は満額支給はされません。私は心中深く感嘆しました。自分にはとても真似できない、と思いました。

定年後に移る約束があった職場に頼み込んで、契約を1年早く結んで貰った、とのことでした。その後、私もその近くの大学へ転任したのですが、年賀状だけやりとりするおつきあいでした。毎年、おだやかな、ほほえましい夫妻の短歌が記されていました。

今年は年賀状が来ませんでしたが、去年の賀状を探し出してみると、こんな歌がありました―真夜中に殺人現場へ呼び出され先ず卵食う刑事コロンボ

往時茫茫です・・・合掌。

太平記の勉強会

必要があって、『太平記』の勉強を始めました。いま最も元気な『太平記』研究者3人に集まって貰って、研究の現状と、15年先まで残せる『太平記』研究を考えるとしたら、というテーマで勉強会をしました。

いま歴史学の方では、南北朝内乱のあれこれについて、『太平記』の記述が正しくないとの指摘が目立ちますが、じつはそれらの論も、かなりの部分は『太平記』に拠っていて、一部分だけを拾い出して論じていること、神道や仏教などの思想的背景は『太平記』の場合、それほど特殊なものではないこと、『太平記』研究には表現論が不足していること、日本語学の方からもっと発言があってもいいのではないか、この20年ほどの間の物故者(『太平記』の偉大なる研究者が多い)に対する評価がそろそろあってもいいのでは等々のほかに、時代背景として、禅宗や宋元文化との関連も話題に上りました。

率直な意見交換が出来て、いい勉強になりました。同時に、うすうす私が感じていたことが、『太平記』研究の最前線の人たちの発言から裏付けられる例も少なくなく、自分の研究者感覚に自信が持てました。本日の勉強会の核心部分は、できれば遠からぬうちに、ウェブ上で公開したいと考えています。

暮れてゆく市ヶ谷の街で、麦酒片手に、さらに範囲を広げてお喋りしました。近頃の出版文化について、2040年までの大学教育、殊に文学系の教育の未来、女性学長の誕生秘話・・・地下鉄へ向かって歩き出すと、湿った木の葉の匂いが外堀の土手から立ちのぼってきました。

お伽草子と説話

説話文学会9月例会のシンポジウム「お伽草子と説話」を、聞きに行きました。永年この分野をやってきた德田和夫さんの、定年記念を兼ねたような企画で、盛会でした。岩崎雅彦さんの司会も上手でしたし、近年話の長くなった德田さんも今日は、ほぼぴったりの時間を守り、スムースな進行でした。

基調講演「お伽草子の説話/説話のお伽草子」は、広義のお伽草子(420種あるという)について、題材と形態のあり方のさまざまを例を挙げて分類し、その引例の蓄積には感嘆せざるをえませんでしたが、分類基準とその脈絡が、いまいちよく分かりませんでした。パネラーの報告は以下の通り。

伊藤慎吾さんの「玉藻前と犬追物起源譚」は,エンターテイメントであるはずの物語に、知識を保存・開示する役割が背負わされるようになり、お伽草子玉藻前』はその好例だと説くもの。ケラー・キンブローさんの発表「お伽草子『二十四孝』と渋皮清右衛門の女訓書」は、当時の女性は女訓書を読んで、何を学んだのかを考察しようとしたもの。ロベルタ・ストリッポリさんは自分で撮影した各地の写真を公開しながら、「『平家物語』の女性説話とお伽草子・能・民間伝承」と題して、芸能や物語から現代もなお「文化遺跡」が生まれていることを話しました。山本陽子さん「つなぐ霞」は、奈良絵本のすやり霞の役割を解析した発表でした。

久しぶりの学会だったので、挨拶しても急には反応が返ってこない相手もありましたが、私の方は活力が戻ってきたような気がしました。德田さん架蔵の資料展示も素晴らしいものでした。高田馬場で、20年前の教え子とよもやまの話をしながら呑んで帰りました。

 

 

パワハラ

男の子のパワハラは分かりやすいが、女の子のパワハラは同性には分かりにくい、という話で、40代の知人(女性)と意見が一致しました。日大アメフトの例は、誰が見ても善悪がはっきりしていましたが、体操女子の例は一見、よく分からない。叩かれてもついて行きたいコーチと、言葉の脅しにもストレスを感じる指導者とのどちらを選ぶか、これはパワハラの問題なのかしらという疑問を否めません。そもそもこの競技団体の指導者は、どうして処罰する前にコーチに注意、警告しなかったのか。

実技にすぐれている選手がすぐれた指導者になるとは決まっていない、というのはよく知られたことでしょう。にも関わらず利害関係には深く食い込んでいる。とすればかつての名選手、現役コーチ、指導施設の経営者、競技運営団体の委員だけで、縦関係を構成していることに、問題の根本があるのではないでしょうか。

最近のスポーツ界不祥事の連続には、うんざりします。東京五輪が近づいて、金銭的補助が大きくなったことにも関係があるのでしょう。健全な精神は健全な身体に宿る、とか、五輪は国家が主催するのではなく都市が引き受けるものなのだとか、中学時代に習った基礎知識がぐらつく気がして、動揺しています。

気持ちよく応援できるようにして下さい。暑さ対策やガイドのボランティア募集以前に大事なこと―税金を払っている、スポーツに必ずしも熱中しない多数の人々が、がんばれ、と心から言えるように。

ブラックアウト

北海道の地震による大規模停電には、驚きました。各地に発電所があって、近辺に電力供給しているものだとばかり思っていたので、あんな広域(しかも雪の多い北海道で!)を1箇所でまかなっているとは想像もしていませんでした。送電の設備管理もたいへんだろうなあ、と思いを巡らせました。

現代の生活では、エネルギーの大半はもはや電力に頼っている、と言っても過言ではありません。ガスはなくても暮らせるが、水と電気がなかったら生命に関わります。ブラックアウトという仕組みがあるのも、今回の地震報道で初めて知りました。他の地域の大手電力会社を勤め上げた知人から以下のようなメールが来て、背景がよく分かりました。

<9/6付>「北海道では、地震の直接被害もさることながら、深夜の電力需要が少ない時間帯に、地震で大口供給源の火力発電所が停止したことによる全域停電(ブラックアウト)の影響が、混乱に輪をかけた感があります。復旧には、自力で起動できる水力から発電を始めて、火力の起動に必要な電力を確保し、次第に送電の輪を広げて行かねばならず、早期復旧を祈りたいものです。(机上訓練はできても、実働はそうそうあるものではないので)。」

<9/17付>「北海道は、揚水発電所(電力に余裕がある深夜に水を上池に汲み上げ、電気が必要な時間帯に下池に落として発電する)を活用して計画停電を回避できそうですが、揚水発電はもともと緊急時用で、発電量は2割以上ロスするので、火力の燃料費増加を招き、節電の収入減もあって、長期にわたると財務的には大変だと思います。」

自由化以前は、電力会社には供給義務が厳しく求められ、現在でも現場は、まず復旧、という態勢に全力を挙げるらしい。その上、顧客の希望に応じることも必要になったのでしょう。緊急時の対応は、後知恵で批判しきれない点もあるでしょうが、東北大地震直後の節電を思い出すと、これほど明るい夜がほんとうに必要なのか、時々考えてみてもいいのでは、と思ったりしました。

ちなみにブラックアウトという語には、報道管制、言論統制という意味もあるようです。こちらは、あってはならないことですね。

 

オール◯◯

五輪は「錦の御旗」なのでしょうか。一大イベントには違いないし、経済効果や国際交流にはたしかに有益かもしれません。しかし所詮、イベントです。日常の、しかも未来に向けて蓄積が必要な分野を、犠牲にすべきではない。

大学の学事暦は大学ごとに決めてよい、というのはほんとうです。だからと言って、本来の授業や単位認定を五輪のための特別仕様にするのは、限られた分野だけでいいのではないでしょうか、スポーツ健康学部とか国際観光学科とか。それ以外は学生たちが可能な範囲で協力すればいいし、そのための宣伝活動をすればいい。

小中学校の教員採用試験には水泳のテストがあります。地方勤務の頃、教員採用試験が近づいたら学生たちが水泳学校通いを始めたので、今まで泳げなかったのか、と訊いたところ、私たちの学年は、中学時代、国体で見せるマスゲームの練習で、プールの授業が潰されたのですという。全県この学年は、体育で水泳は習っていない、と聞いて吃驚しました。水泳学校で取り戻せる授業ならまあいいかもしれませんが、安易に「学生を使え」「学校にやらせればいい」という発想は、やめて貰いたい。

そもそもオール◯◯、一億総火の玉、打って一丸となって、というような表現が出て来たら、きゅっと用心したいと思います。いつか来た道だからです。殊に権力側が言う時は、有効な裏付けのない動員をかける時だと思っていい。しかしこれから3年間、始終耳にしそうな予感がして・・・