わかりやすさ

一世を風靡した「ヤングマン」は、つまらない歌だと思っていました。わかりやす過ぎるからです。歌手もそれほど巧くない。むしろTVドラマ「寺内貫太郎一家」の中で、「雨の日は煙草が美味しいのよ」と呟く年増の出戻り女性(演じたのはたしか太地喜和子だった)にほのかに憧れて、未成年なのに煙草を山ほど買い込んでくる場面が印象に残っています。

しかし青山斎場を出て行く霊柩車に向かって、号泣しながら手文字を作り、YMCAの大合唱が起こった時、いい歌だな、と思ってしまいました(TVニュースで視たのですが)。人を感動させ、記憶に残る力とは何だろうか、と考えさせられました。あの場合はファンたちの青春の思い出が重なり、聞くだけでなく身体を動かし、自分たちも大声で歌った体験が決め手だったのでしょう。未だ鎮魂とはいえず、別れや見送りの感情が最高潮になった場面でした。

語り物の場合はどうだろうかーつい、そこに考えが戻っていきました。音楽はたしかに人を救う力がある、それは現実を抽象化できるからだ、と書いたゲラを見たばかりだったので。大勢で一所に、同じ感情を共有することは、言葉で伝えられた内容以上の何かをもたらす、ならばそれが、平家物語の何を変えたのか、変えなかったのか。

運動会の日

昨日の夕方のスーパーはちょっと様子が違いました。30~40代の女性たちがうろうろ、中には外国人もおり、夫が一緒の人もいます。通常、この時間帯にこの年代の女性たちは、目当ての棚が決まっていて、ささっと買い物を済ませるのですが、狭いスーパーの中をあちこち歩き回り、少量の食材を手に取るだけ。

邪魔だなあと思っていたら、近所の奥さんに会いました。「明日は子供の運動会で、お弁当が要るので・・・入れるものを何にしようかと」とのこと。なるほどそうだったのか、と腑に落ちました。

さて今日は小学校の運動会。太鼓乱打や応援練習で、いつもならうるさかったのですが、我が家との間にマンションができ、防音壁になってくれました。入場行進曲はブラスバンド平原綾香の「ジュピター」。その年流行の曲によるダンスがあり、「青春アミーゴ」の年や「マツケンサンバ」の年もありましたが、ここ数年は外国の曲です。体育教師が替わったのかもしれません。

幕切れは5,6年生による「よさこいソーラン」の総踊りです。今や全国的に日本の小学生の共通体験は、この「よさこいソーラン」ではないでしょうか。私たちの世代はラジオ体操でした。40代の人に訊いたら、フォークダンスだと言っていましたが、同世代が一斉に歌って踊れるソウルミュージックは、盆踊り定番の炭坑節や五輪音頭から、パフォーマンスとしてのソーラン節へと変わったようです。閉会は全員の「believe」合唱が恒例。

選挙の投票日と小学校の運動会前日は、街が何だかそわそわしています。太宰治がばあやと一緒に茣蓙に座って、故郷の運動会を観る場面は、思い出すだけでしんみりしますが、親が観に来られない子供にとってはつらい一日かもしれません。

食卓の演出

かかりつけの医者がぎっくり腰になって入院しました。胃腸の具合や血流のことを相談する所存で行ったのに、当分診察はできないとのこと。とりあえず、「お大事に」と言って帰ってきました。2歳くらい年下の家父長型の医者だったのですが、新たにかかりつけ医を探すとなるとまた大変。あまり若いと信用できないし、終末を看取って貰うためにはあまり年長では間に合わないし、勿論ウデと説明能力も大事です。結婚相手を探すよりむつかしい、と言ったら知人に笑われました。

幸い、半年近くかけた食生活改善が少しずつ功を奏してきたようで、胃腸は安定し始めました。ヘルシー第一でつまらなかった食卓に、それなりの演出を試みる余裕もできました。近所の公園から失敬してきた山椒の若葉を、皮蛋に載せてみたら、これが美味しい。ふつう皮蛋は芥子をつけて食べますが、山椒の芽に合うことは発見でした。粉山椒ではいまいちのようです。

若い頃は朝食に卵を焼いていたのですが、コレステロールが気になる年頃からは、ソーセージやハムで蛋白質を摂っていました。最近、加工肉は危険だというキャンペーンが盛んになり、やむなく茹で玉子に切り替え、宮城のぐい呑みをエッグスタンドに、桜塩を振って食べることにしました。

去年の今頃は、木の芽を梅干しに切り込んで、また桜漬の花の塩をはたき落として、晩酌の肴にするのを楽しみに、仕事をしたのですが・・・口惜しい。しかし出来ないことを数えず、未だ出来ることを享楽するのが人生のコツ。角館の桜の樹皮で作ったコースターに、カフェレスのアイスコーヒーが乗って、いまPCの傍らにあります。

統計学

若い頃非常勤先で知り合った、専門や出身大学の異なる方々との、講師室の休憩時間の談話は、いま思うと貴重でした。もうどこでお会いしたか忘れてしまいましたが、大きな私大(法学部が有名)の統計学の先生と知り合いになったことがあります。全国を吹き荒れた学園紛争が収まった後のことです。

アンケートというものは、例えば太陽は東から出るか、という設問であっても、必ず何パーセントかはNOとする回答があるもので、数値は統計上の処理を施して初めて使い物になる、という話を聞いたのが印象に残っています。

あるとき、大学の採用人事が母校出身者に偏りがちなのは問題だという話が出ました。その先生は一呼吸置いて、こう言われました―でも、あの紛争の時、大学を建て直したのは母校出身の若い教員たちだった、母校へ戻るともうよそへは移れない、ここをよくするしかない、という彼等の覚悟のおかげで、いまの◯◯大学があるのです。

しみじみとした口調でした。いま反則スポーツで騒動になっている大学にも、母校出身の教職員がいるはずです。ネット上で大学名が叩かれ、現役の学生から、自分たちは関係ないのに、と抗議するツイッターもありますが、半世紀前の大学紛争時代に最も尊敬され、「闘争」と呼ばれるのに値するとされたのは、あの大学の全共闘でした。自分たちの言葉で闘争宣言を書き、自分たちの身の丈に合った要求と交渉を繰り広げようとした、と私たちの世代には記憶されています。

緑の親指

梅雨空を思わせるような天候です。梔子の蕾が膨らんで来ました。年々樹が古くなって鉢が小さすぎるのは分かっているのですが、これ以上大きな鉢にすると、私の手で動かせなくなるので我慢させています。それゆえ、劣悪な環境下で蕾をつけてくれるのは嬉しい。石榴も同様で、春に出た蕾が落ちてしまい、新たに2個の蕾を見つけた時は思わず、ありがとうと言いたくなりました。

ロベリアの「毛づくろい」(花屋の大将の言。花殻を摘んでやること)や美女桜の切り戻しに時間がかかりました。どちらも日に当ててやらないと駄目になるようで、おとなしそうな草形だからと放っておいていいわけではないらしい。前者はミゾカクシ、後者はクマツヅラの仲間だと知って、日照を好む理由に納得しました。

梔子は、20年ほど前、頂いた切り花を挿し木したら全部根付き、もう私の背丈をこえています。石榴は種1粒から育てました。散歩しながら、南天の実、鬼百合のむかご、サルビアや菫の種子、ムスカリの球根を空地に投げ込み、数年経って花が咲いているのを見るのが人知れぬ楽しみです。

植木の管理が上手な人を、英語では green thumb と言うのだそうです。しかしこのところ、私も腕が落ちました。去年我が家で挿し木した山椒も、今年挿した薔薇も根付きませんでした。菊の挿し芽だけは殆ど百発百中成功し、どんどん増えて、あちこちに貰ってもらうのに苦労しています。

去年埋めた梅の実は未だ芽を出しません。今年埋めた山桜の実はどうなるかしら。こんなことをしているのも、来年があると思うからで、栽培は未来を運営することだと言ってもいいのかもしれません。

一杯の珈琲から

毎朝、一通り家事が終わると、珈琲から仕事を始めるのが習慣でした。仏壇にも上げます。親の世代は、珈琲が青春の思い出につながっているのか、特別な思いがあるようでした。生前、カップに珈琲を注ぐと、「もっともっと!喫茶店のはけちくさくて我慢できない」と縁すれすれまで入れさせました。恩師の市古貞次先生は、私がスプーン1杯半の砂糖を入れるのを見て、「ちょっとしか入れないんだなあ、僕はそれでは我慢できない」と仰言って、何と6杯入れられました。「先生、それじゃ砂糖に珈琲を入れてるようなもんですよ」と申し上げたのですが。戦前・戦中は砂糖が貴重品だったのです。

アメリカ文学専攻の友人が食道手術をした時、カフェレスコーヒーを奨めましたが、美味しくないと言う。1年後、自分が胃腸を悪くして刺激物をやめざるを得なくなり、あれこれ試した結果、ドリップで淹れればカフェレスも香りがあるが、すぐ消えること、インスタントのカフェレスはたしかに美味しくないことを発見。買ってしまった粉末カフェレスは、アイス用にすれば飲めなくはないことも分かりました。

アイスコーヒーは、淹れて冷やして、では手間がかかるので、微糖をパックで買っていたのですが、健診で糖分過剰と言われたのでブラックにし、自分で計って砂糖を入れることにしました。そのうち、タリーズのアイスブラックのボトル入りが最も香りがいいと知って愛飲していたのですが、どうも胃にはよくないらしい。今夏はカフェレス・インスタントでいきます。

紅茶は老婦人がゆっくり飲むのに相応しい。珈琲はさあ一仕事、もしくは仕事の中休みに相応しい。英国と米国のテイストの違いにも似ています。個人の感想ですが。

ドレスコード

父が生きていた頃は、毎年、彼の誕生日(1月)と父の日(6月)に、ネクタイを贈るのが習慣でした。冬にはウールのカジュアル、夏には麻の単衣物とか、時にはちょっと変わった色をとか、選ぶ方は変化をつけようとするのですが、仕事社会にはそれなりのルールがあったらしく、あまり変わったものを選ぶと、その場で礼は言うものの、けっきょく締めて貰えませんでした。

娘はどうしても父親にいつまでも若くあって欲しいので、派手な柄を選びがちです。ある日、父とその同僚と3人で会食した時、同僚が「随分若やかなネクタイしてますね」と冷やかし、父は「あ、今日はアフリカ使節団に会ったものだから」と言い訳しました。それは私が贈った、鮮やかな赤と青の濃淡の柄のネクタイでした。爾来、すこし地味めのものを選ぶように心がけました。

それゆえ私はけっこう、ネクタイにはうるさいのです。

お詫び会見のドレスコードってあるのでしょうか?黒のスーツに黒のネクタイで4人の男が揃って並べば、葬式に見えます。メンバーと訣別した、というメッセージを発信していたのでしょうか。スクールカラーとはいえピンクのネクタイは、お詫びに行くのにふさわしいでしょうか(大学のロゴ入りのタイには紺やグレーもあるらしい)。それとも、大学を代表して来たというメッセージだったのでしょうか。お詫びならしょげているはずで、どちらもその気配が感じられないのです。ドレスコードは、その場に相応した気配を形式に表したものでしょう。気配が無いのに服飾で代替はできない。

同じように、言葉だけで、無い気持ちを代替することはできません。責任はすべて私にあります、という言を、ここ数年、国会中継で何度聞いたことか。