墓参

御殿場の富士霊園へ墓参に出かけました。タクシーを借り切って、古くからの友人に同乗して貰っての往復です。墓参日和とでも言いたいような好天で、雪の無い富士山がどっかりとよく見えました。連休明けなので霊園内には殆ど人影がなく、線香が燃え尽きるまで墓前に、家や軍刀や蔵書を処分したこと、益子焼コレクションを寄贈したことなど報告しました。

周囲の雑木林では紅葉が始まり、東名高速の蔦紅葉が思わず声を上げるほど綺麗でした。都内は「来日外国要人」のため交通規制があり、しかもその情報が具体的には公表されていない(漠然とでもいいから公表しておいて欲しい。テロリストはこんな情報隠しなんか軽々と乗り越えるだろう)ので、ときどき渋滞にぶつかりましたが、どうやらやり過ごして16:30に帰宅できました。

無信心の私でも、墓参りをすると何故かほっとします。残された者が手を合わせに行く先があるということ、それが大事です。

知られざる傑作

学部時代、俳諧が御専門の井本農一先生に習いました。最初の専門科目は2年の演習でしたが、穏やかな口調ながら執拗に、学生の思い込みを追い詰める授業で、上級生の中には泣き出した人もいる、という噂でした。辞書にあった、は禁句。「辞書も人間が作ったものですよ、貴女と同じ人間が。信用していいですか?」という調子です。

講義科目の時間でしたから3年になっていたと思いますが、ある日、先生は何の説明もなく、ストーリーを語り始めました。若い男女と画家の絡むストーリーを、かなり詳しく、しかし固有名詞なしにゆっくり語り、とうとう2時間の授業はそれだけで終わりました。私たちは狐につままれたようでした。帰宅して父親にこの話をしたところ、「それはバルザックの『知られざる傑作』だ。なんだ、読んでないのか」と言われ、彼の本棚から文庫本を探し出して読みました。老画家が死ぬまで完成させず描き続けた作品は、彼の死後に見てみると意図の分からない絵具の塗りたくりだった、というような筋だったと記憶しています。

今でもあの講義の意味がわかりません。その日、授業の予習が間に合わなかったのでしょうか。それとも誰かへのあてこすりか、私たちへの教訓だったのでしょうか。固有名詞を抜いて話されたところから見ると、後者の可能性がつよいと思いますが・・・少なくとも私は、没頭しすぎて自己満足になるな、という教えを、井本先生から頂いたことにしています。

中世の随筆

ツンドクの山を、随筆文学の峯から崩すことにしました。まずは荒木浩編『中世の随筆―成立・展開と文体―』(竹林舎 2014)。随筆文学は最初にジャンルの定義にこだわらざるを得ないようで(軍記物語でも名称にこだわる人たちもありますが)、もともと作者たちの時代にはそんな区分けはなかったわけで、当代の研究者のための問題にすぎず、全員がそれを論じなければならないものだとは私は思っていません。無理に同じジャンルとして包括しなければならぬものでもないでしょう。

この本の圧巻は何と言っても小川剛生「徒然草と金沢北条氏」・松薗斉「漢文日記と随筆」の両編。互いに知らないまま異なる方法で、兼好の伝記について同じ結論に到達しています。学問上の新発見はしばしば、時機が熟したときにこういう偶然があるものらしい。掲載論文はどれも力作ですが、基本的なことを扱った海野圭介「方丈記の装幀とジャンル意識」、三角洋一「『方丈記』は片仮名文で書かれたかを考える」、落合博志「『徒然草』本文再考」が有益でした。殊に絵画資料と文学との関係に苦悩していた私にとって、朝木敏子「記号から物語へ」には、蒙を啓かれました。以下のような指摘には思わずなあるほど、とひとりごちた次第です―注釈という「ことば」の読みから立ち上がった挿絵が、記号として自律的に動き、<参照系の物語>(mamedlit注:伊勢物語源氏物語など、中世人にとっての古典)という「こころ」の側で読み換えられていく。文字テクストの外側に広がる範列的な物語テクストを横断的にスライドしていく絵の側からの読み(本書540p)。

鴨長明に関しては木下華子「『方丈記』論」、伊東玉美「説話集と随筆―『発心集』の場合―」を肯きながら読みましたが、木下さんの『鴨長明研究―表現の基層ー』(勉誠出版 2015)も一緒に読み、大いに楽しみました。和歌文学に詳しいこと、大きな難問に恐れず断定を下して行くところがこの本の魅力です。

磯水絵編『今日は一日、方丈記』(新典社 2013)は、抜群の実行力をもつ磯さんが、長明八百年忌と二松学舎大学創立135周年記念行事とを兼ねて開催したシンポジウムの記録です。当日は長明の生涯の躓きとなった琵琶の秘曲が、S.G.ネルソンさんによって復元、演奏され、私も聞きに行きました。浅見和彦『鴨長明方丈記―波乱の生涯を追う』(NHK出版 2016)は分かりやすいテキストですが、改めて長明ほどその生涯についての情報が多く残っている中世人も珍しい、にも拘わらず分からないことも多い、という事実に注目すると、軍記物語のように作者名が殆ど知られない文学を扱う場合の注意点を考えさせられます。

憲法を

大学で教員免許を取るためには、憲法の講義を受講することが必須になっています。ここ十数年、各大学から推薦される大学院生の成績証明書に目を通す機会があるのですが、深刻な衝撃を受けたのは、優秀な成績なのに憲法の単位の評価が著しく悪い、という例が少なくないことでした。どうせ資格取得のためだから、と考えているとしたら、ゆゆしきことです。

私たちは中学時代、日本国憲法を熱意をこめて教えられました(前文や9条、97条は暗記しました)。大学へ入って一般教養では、松本清張を小型にしたような風貌の先生から憲法の講義を受け、授業そのものはごくふつうの授業でしたが、「権利というものは小出しに与えられるものではない、元来、人間はどこまでも自由だが、ただ公共のために一部が制限されるのだ」と言われたときは、未だ封建的な家父長制の余響の中で育った私には、目から鱗が落ちる以上の驚きでした。学期末試験のために憲法の解説書を読み、「立憲君主国の君主の使命はただ一つ、それは・・・」以下の文章を読んだときも、我が目を疑って何度も読み直しました。

憲法をまじめに勉強しましょう。ものごとを見るのに新しい角度を手に入れることができます。そこには複雑な現在と、予測困難な未来に備えて、シンプルな言葉で事態解決のための用意が述べられているからです。芥川龍之介若い人たちに向けて、文学をやりたければ数学を勉強したまえ、と言っています。自分の専門分野とは異なる目で世界を見る経験は、最前線に出ようと思うなら不可欠です。

 

源平の人々に出会う旅 第11回「奈良市・奈良炎上」

 治承4年(1180年)12月、清盛は敵対する南都の大衆(奈良の僧侶)を抑えるため、重衡を派遣し南都を焼討ちしてしまいます。『源平盛衰記』には興福寺東大寺の伽藍の由来がより詳細に記されています。

【猿沢の池】
 最初に鎮圧のため派遣された妹尾兼康は、大衆の勢いに押され京ヘ逃げ帰りました。大衆らは、討ち取った兼康の家の子郎等の首を猿沢の池の端に懸けたのです。

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東大寺大仏殿(奈良の大仏)】
 重衡の指示で民家に放った火が東大寺興福寺に燃え移り、大仏殿の上に避難していた稚児や老尼・僧達は逃げようとして、はしごから転落死してしまいます。経典を焼き、仏像や寺院を破壊し、僧侶を死なせた清盛は、決して許されることのない大罪を背負うことになるのです。

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興福寺東金堂と五重塔
 藤原氏の氏寺である興福寺は、以仁王に加担した反平家勢力でした。東金堂は聖武天皇元正天皇の病気平癒のために造った薬師像や、新羅国から来た三尊を安置したとされます(西金堂や中金堂(復元予定あり)は現在遺跡のみです)。

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【手向山八幡宮
 両寺はほぼ全焼し、多くの僧侶が斬り殺されました。『平家物語』諸本に記述はありませんが、東大寺に隣接する手向山八幡宮も、この時に焼失したと伝わります。

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〈交通〉
JR・近鉄奈良駅下車
     (伊藤悦子)

検査後の一日

消化器の検査が続いたので、3日ぶりに朝食を摂りました。朝食はネクタリンジャムを入れたヨーグルト、果物、フランスパンとソーセージ、トマトスープ、それに珈琲。胃腸の具合が気になり出してからは、起き抜けに冷たい牛乳を飲みながらメールチェックをするようにしました。ベッドの上と朝風呂の中と、2種類のメニューでストレッチ体操。だんだん自己管理に手間と時間がかかるようになります。

郵便局へ用足しに行ったら、もう年賀葉書の売り出しが始まっていました。局員にはノルマがあるらしく、配達に来て売り込みをされたりするので警戒してしまいます。かつては売り切れになることもありましたが、メールが普及したこの頃では、発売枚数が多すぎるのではないでしょうか。

母の命日が近いので花屋へ廻って花を買いました。オレンジと白を基調にした花束を作って貰って、裕山窯の花瓶に挿し、今日届いた本のあとがきを読んだらもう日が暮れ始めました。今夜は十三夜。我が家は東と南に大きな窓があるので、月を観るには最上の環境です。検査後の一日くらい、のんびりしてもいいのではないかと自分を甘やかし、今夜は月見酒の支度をすることにしました。

こういう、何でもない平和を守るのがどんなにたいへんか、そしてそのための苦労をなるべく見えないように日々暮らしていく意地が、生きて在るということでしょうね。

 

s字理論T字理論

私たちの世代では定年まで勤める女性は少数派だったので、勤めおおせる女性のタイプをひそかに観察し、その結果3つの類型がある、という仮説に達しました。①女王タイプ ②童女タイプ ③お母さんタイプの3つです。男性の中に1人だけの女性、という場合にはだいたいこの3タイプのどれかに当てはまるようですが、時代が進んで2人目の女性として参入するには、時と場合に応じて使い分けられることが必要だったでしょう。但し男性に向かっては②、同性に向かっては①、という型は最悪です。

私より8~12年くらい上の世代は、無意識ながらs字理論とでもいう価値観を持っている女性が多かった。現在でも「男尊女子」という成句があるようですが、男性が上、その一番下に優秀な女性が(勿論自分はその中に入って)いる、というものです。私より10年くらい若い世代は、やはり無意識ながら、T字理論とでもいうべき感覚でやっている女性が多い。男性の下に女性はすべて(年齢やキャリアに関係なく)平等だ、という態度です。

この頃はもう、さりげなく男女混交でやっていけているのでしょうか。SもTも、笑い話になっていればいいのですが。