知られざる傑作

学部時代、俳諧が御専門の井本農一先生に習いました。最初の専門科目は2年の演習でしたが、穏やかな口調ながら執拗に、学生の思い込みを追い詰める授業で、上級生の中には泣き出した人もいる、という噂でした。辞書にあった、は禁句。「辞書も人間が作ったものですよ、貴女と同じ人間が。信用していいですか?」という調子です。

講義科目の時間でしたから3年になっていたと思いますが、ある日、先生は何の説明もなく、ストーリーを語り始めました。若い男女と画家の絡むストーリーを、かなり詳しく、しかし固有名詞なしにゆっくり語り、とうとう2時間の授業はそれだけで終わりました。私たちは狐につままれたようでした。帰宅して父親にこの話をしたところ、「それはバルザックの『知られざる傑作』だ。なんだ、読んでないのか」と言われ、彼の本棚から文庫本を探し出して読みました。老画家が死ぬまで完成させず描き続けた作品は、彼の死後に見てみると意図の分からない絵具の塗りたくりだった、というような筋だったと記憶しています。

今でもあの講義の意味がわかりません。その日、授業の予習が間に合わなかったのでしょうか。それとも誰かへのあてこすりか、私たちへの教訓だったのでしょうか。固有名詞を抜いて話されたところから見ると、後者の可能性がつよいと思いますが・・・少なくとも私は、没頭しすぎて自己満足になるな、という教えを、井本先生から頂いたことにしています。