治承4年(1180年)12月、清盛は敵対する南都の大衆(奈良の僧侶)を抑えるため、重衡を派遣し南都を焼討ちしてしまいます。『源平盛衰記』には興福寺・東大寺の伽藍の由来がより詳細に記されています。 【猿沢の池】 最初に鎮圧のため派遣された妹尾兼康は、…
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