染付

所用の後、根津美術館へ寄って「染付誕生400年」展を見てきました。主に江戸前期の肥前の焼物です。寛文延宝頃、整版本や奈良絵本の出た時代の文化が、自分の中でぼんやりとかたちを取り始めました。若い頃は染付のよさが分からず、漬物皿くらいに思っていましたが、40代半ばくらいから、いいものは、いいと思うようになりました。ウィスキーを生(き)で呑んで美味しいと思うようになったのも、ちょうどこの頃からです。つまり大人になったのでしょう。尤も今日の展示を見て、染付と呼ばれる物にもいろいろあることが分かりました。思わず「いいなあ」と口の中で呟いているのに気づいたりしながら見て歩き、絵付も大胆なデザインがあるのに驚嘆。

2階の展示室の百椿図も近世初期の文化人たちが揃って賛を書いていて、豪華なものでしたし、同館所蔵の帝釈天興福寺蔵の梵天(定慶作)が並べられた特別展示「再会」にも圧倒されました。

庭園には紅梅と2株の寒牡丹が咲いていて、心満ち足りた時間でした。染付の展示は19日まで、特別展示「再会」は3月31日まで。

剣の名

「国語と国文学」3月号が出ました。昨年5月4日に亡くなった三角洋一さんの追悼記事が載っています。愛妻美冬さんの文章に心を打たれました。「ひとつひとつの作品と時代を丁寧に考察して、その間のつながりを明らかにしていくというのが」、彼による物語史の構想だったのではと述べています。三角さんはよき理解者を傍に得て幸せだったなと思うと共に、改めて、研究方法の上でもよき同志を喪った憾を深くしました。 合掌。

同誌には岩田芳子さんの「「朝野群載」所収「御剣名」考」という論文が出ていて、興味深く読みました。中世には剣の名や由来に関心が高まり、名剣を軸とする歴史記述(「剣巻」)も生まれますが、その源流は遠く広く遡れるのだということを考えさせられました。

虚像を剥ぐ

曽我良成さんの新著『物語がつくった驕れる平家』を読みました。平家物語は永く日本人の中世史観に影響してきて、我々は今なおいくつもの思い込みに囲い込まれている、との指摘は重要なものです。貴族の漢文日記を読み解きながら、「平家に非ずんば人に非ず」という発言の意味、清盛が都に放ったというスパイ「禿童」の有無、殿下乗合事件の真相、安元3年頃の政界人事権は誰にあったか、安元白山事件の本質等々を考察していますが、本題は殿下乗合事件で、物語が清盛を悪人化するために重盛を美化しているとしてきた通説は誤り、とつよく主張しています。

平家物語は文学であって歴史記録ではない、という視点をキープすることには大いに同調したいと思います。しかし文学研究者はそこからが出発なので、虚像を剥いで、さて何を追っかけるか、立ち止まってはいられません。

赤い実

バスで街を走ると、街路樹の水木の実がなくなったことに気づきます。鳥たちが食べたのでしょう。鳥の眼には赤色が最もよく見える、という話を聞いたことがありますが本当でしょうか。彼等にも好みがあるらしくて、南天・千両・ピラカンサスと、順を追って無くなりましたが、コガネモチの実は未だ残っています。かつてシートンの動物記を読んだ時、氷に閉じ込められた山鳥の父親がやっと脱出して子を救い出す前に、まず野茨の実を「2つ3つ食って、かみつくような飢えを鎮め」たという箇所が強烈に印象に残っています。

仕事仲間の結婚祝いに、茱萸の木の鉢植えを贈ったところ、新妻が「お庭に赤い実のなる木が欲しかったの」と言ったと聞いて、なんてかわいい人と結婚したんだろう、と思ったことがありました。遠い昔になりました(じつは、茱萸の木は雌雄2株ないと実を結ばない、とは後日知ったことです)。

紀元節

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鳥取は三十数年ぶりの大雪のようです。知人から玄関先が雪山になった写真が送られてきました。

雪の降る特異日というのがあるのかどうか、気象学上のことは知りませんが、12月14日(赤穂浪士討ち入りの日)、同24日(クリスマスイヴ)、1月15日(センター試験の日です)、そして2月11日(旧紀元節)は雪の印象がつよい。建国記念日が制定された年、私たちは紀元節復活に抗議して同盟登校しました。講義の代わりに学生自治会主催で、有名な哲学者と教育学の助教授の講演会がありました。その朝は大雪で、大塚キャンパスは文字通り膝を没する積雪でした。今ではあれほどの雪は東京には降らないでしょう。若い助教授は熱弁を振るい、圧倒され気味の私たちに、最後「たいへん激烈で恐れ入りますが」と締めくくったことを、今でも思い出します。

もう一つの平家伝説

平家物語に登場する人物には、何故か故郷や配流先で農業に貢献したという話が伝わっていることが少なくありません。平家側とは限らず、以仁王の乱で奮戦した信連(長谷部信連)も、配流先の伯耆国鳥取県)日野では地元の農業振興に関わったと伝えられています。彼の屋敷跡は日野町の根雨にあります。私が訪ねたのは29年前、今上天皇即位のための休日でしたが、中世の屋敷跡がよく保存され(敷地内には冬菜の畝が作ってありましたが)、隣の厳島神社の紅葉が燃えるようでした。根雨は古い宿場の面影を遺す、静かな街道筋です。日野川たたら製鉄と関係があります。伯備線は(今でも)1時間に1本程度しか通らず、鳥取市から真っ直ぐ行って真っ直ぐ戻るだけでまる1日かかりました。

信連の墓は石川県にあります。40年ほど前に訪ねた時は苦労しました。能登を1泊2日で廻る観光バスがありますが、輪島の物産館見学の間にそっと抜け出し、タクシーで行こうとしたのですが、タクシーの運転手も知らない。運転手仲間であれこれ詮議し(中には「俺んちの墓では駄目か」なんて言う人もいました)、「そう言えばあの田圃の中に何かあったな」ということで連れて行って貰いました。咲き終わった彼岸花の叢の中に石塔が建っているだけ。でも感激しました。いまネットで見ると、立派な観光地になり、彼岸花の名所と謳っています。

信連の晩年については『吾妻鏡』建保6年10月27日条に載っていますが、平家物語諸本には異伝もあり、中世を通じて人気のあった人物だったのでしょう。

祇王寺

祇王寺は桜の樹高が高すぎて、庭の苔に散り敷いた落花を楽しむ寺です。近くの瀧口寺では、丸窓の障子に映った花の影を楽しむのだと案内された記憶があります。人少なの時間に独占的に味わいたい情趣ですが・・・

徒然草には「散りしをれたる庭」(137段)や「庭に散りしをれたる花」(43段)が見所多く見過しがたいものと述べられていますが、「散りしをれたる庭」については漠然と「花が散って寂しくなった」といった受け止め方がされているようです。「しをる(しほる)」は現代語の「萎れる」意のほかに、室町期には「しっとりと潤うようなあわれが自然ににじみ出る」という意があり、時代的にいつ頃からそのニュアンスが認知されるようになったのか、気になっています。平仮名書きの本文を翻刻する際、人物が「しほる」か「(涙で濡れた袖を)しぼる」かは、一瞬迷うことがあります。