家ごとの「さきの大戦」・進駐前夜篇

九州は終戦直前、激しい都市爆撃に襲われました。敗戦後、明日は進駐軍が上陸するという晩、博多の町ではそこここで鶏の悲鳴が聞こえた、という一つ話があります。占領軍に食われるくらいなら自分たちで、というわけで、飼っていた鶏を絞めて水炊き(博多のソウルフード)にする家が多かった、というのです。

それはともかく、博多では進駐軍が来る前に女・子どもを山に隠す相談をしたそうです。結核で寝たきりになっていた母は、義妹や舅姑に「私はいいです、置いて行って下さい」と言ったそうで、その話が出た時、父は「あの人、英語が出来たからなあ」と言ってなつかしがりました(母は英文科出でしたが、そういう問題ではない!)。

当時、私と母を郷里の博多に預けて、父は東京で、終戦後の食料手当てや経済再生計画に携わっていたらしいのです。日本軍は物資補給がいい加減で、食料は現地で購入するか略奪したので、すでに逼迫している日本の食糧事情に占領軍への供出が加わったら、どうにもならないと考えたらしい。国内で餓死者がどのくらい出るかの試算をしたところ、莫大な数字が出て、呆然としたそうです。つくづく「官僚は悲観的な見方をするものなんだなあ」と、高度成長期に入ってから述懐していました。何故予測が外れたのかは、野坂昭如の「アメリカひじき」を読むとよく分かります。