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源平の人々に出会う旅 第5回「木津川・以仁王の最期」

 三井寺を脱出した高倉宮以仁王は南都へ向かいます。途中、平等院で、追ってきた平家軍と激戦になり、三井寺法師が活躍(橋合戦)しますが、平家方の足利又太郎が馬筏で宇治川を渡り、源氏軍は総崩れとなります。頼政父子は自害、以仁王は南都を目指します。

【井手の玉川】
 玉水駅から南都方面へ向かう途中、歌枕で知られる井手の玉川があります。『源平盛衰記』にも以仁王が「井手ノ渡ト云所マデ延サセ給ヒケリ」とあり、この川が「水なし川」と呼ばれていたことが記されています。以仁王はわずかな従者を従えて、この川を越えたのです。

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【高倉神社・以仁王陵墓】
 井手の玉川の先には、以仁王を祀る高倉神社と陵墓があります。以仁王は光明山の鳥居の前で流れ矢に当たり落命しました。光明山は高倉神社の東南に位置し、綺原(かんばら)神社の脇を流れる天神川沿いの山で、光明山寺がありました。以仁王が通ったと考えられる奈良街道沿いに、山麓の鳥居(当時は神仏習合)があったのでしょう。高倉神社の近くにある阿弥陀寺は、以仁王の死後に仏事を営み、山号を高倉山に改名したと伝わります。

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【筒井浄妙塚】
 高倉神社の近くに浄妙塚があります。三井寺の筒井浄妙明秀は、橋桁が外された宇治橋を走り回り大勢の敵を倒します。橋上で一来法師が明秀の肩に手を置いて飛び越える有名な場面は、江戸時代の絵画資料にもよく描かれています。明秀は生き延び、この戦いで負った63ヶ所の傷を治療して奈良方面へ向かったとされます。

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【旦椋(あさくら)神社】
 もとは冑神社と呼ばれ、以仁王の冑を祀っていたと伝わります。少し離れた場所に「高倉宮冑之社」碑が建っています。

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〈交通〉JR奈良線玉水駅・長池駅
             (伊藤悦子)