羆の尊厳

子供の頃、大島正満の『動物物語』を愛読しましたが、冒頭に北海道の熊の話がありました。夜、団欒中の屯田兵一家の小屋の壁を破って、羆が侵入する話です。その後熊は捕らえられ、学生たちの解剖教材となるのですが、昼休みにその肉を失敬して食べた彼らは、午後の解剖中に教室を飛び出し、揃って吐いたという。熊の胃から人間の頭髪が出てきたからでした。何年かずっと、怖くて夜の窓を見上げられませんでした。

Nスペで、北海道のOso18と呼ばれた熊が駆除された話を視ました。違和感が残りました。まず羆が肉食なのは常識だったのでは・・・熊はもともと雑食だが月輪熊は草食寄り、羆は肉食寄りで時には人をも襲う、と子供時代に覚えました。家畜を襲うのが異常なのではなく、植物を一切食べないのが異例なのでしょう。目撃されず、66頭の乳牛を殺しても半数しか食べていないというので、一種の伝説ができたようです。特に大きくはない、成功体験の跡ばかりを歩いている熊だ、との報告もあったのに。駆除を依頼された腕利き猟師たちに、どこか落胆と憤懣の気配(素人が簡単に撃ち殺し、経緯が知られぬまま解体されたことへの)を感じたのは私の偏見でしょうか。番組が、都内のジビエ料理の鍋で煮られる映像を出したことにも、違和感があります。猛獣を食するには資格が要るーアイヌか猟師ならともかく。羆にも尊厳がある。そんな気がしてしまうのです。

もしかしてOso18は、早く親に別れ、熊らしい食育を受けず、襲いやすい家畜を狙う癖がついたのではなかったか。姿を見られなかったのも大半の牛をただ殺しただけだったのも臆病だったからで、羆としての家族も持てずにさ迷っていたらしい。蝦夷鹿か鮭で命を繋いでいればよかったのにー駆除は当然でしょうが、悲しく寂しい。ふと、やはり子供の頃読んだ、シートンの『動物記』を思い出しました。今はあの筆調の文章を読みたい。