アジアの中で

福岡の叔母の孫と、街にアジア人が多くなったという話をしたら、俺らの修学旅行は戒厳令下の韓国やった、と言う。62歳、県立工業高校の卒業生です。こちらは吃驚、学校はもとより教育委員会が勇気があるなあ、と感心したのですが、当人は、あれは教師が楽したかったからだ、宿泊は海上の船の中、自由時間は一切なく、どこへも出られんかった、と今もなお根に持っている風です。どこへ行ったと?と訊くと、学校訪問と博物館などの見学だけ、夜の街を歩くと逮捕されると言われたそう。博多港から韓国へは高速船が通っているので、国はどうであれ、若い者同士は付き合いが必要、という考えだったのでしょう。しかし同級生で行かれない子がいる。「なして行かんと?」と訊くと、「だって俺、北やもん」。何のことか分からない。「北って何?」「・・・」。その時初めて、級友の故国のことを知った、と言っていました。

赤間神宮の名誉宮司は大連育ち、終戦時の話を聞きました。大連にあった神社では現地人も日本人と同待遇で雇用していたので、敗戦後も守ってくれたという。しかし中国人の情報の速さ、表裏の使い分けは驚嘆に値するもので、終戦と同時に街は紅旗で一杯になったそうです。私も亡父の武漢での経験談を話しました。中国の底力に叶うわけがない、そういうアジアの中で、日本はどういう位置を占めるか、という考え方をすべきで、いつまでも兄貴気分では出遅れる、と米寿と傘寿の意見は一致したのです。

名誉宮司雅楽に詳しく、インドネシアを訪問してガムランを聴いた時はすっかり惚れ込み、俺はここへ置いてってくれ、と言って一行から叱られたとか。そうです、アジアには日本人の魂の根源に触れる共通性と、驚くほかはない相異(例えば印度の時間感覚の悠久、穏やかなカンボジア人たちの持つ壮大な建築技術など)とが秘められている。それぞれの土地に根ざす文化を残し、受け継ぎ、育て、それを助け合うことが、ミサイルを買うよりずっと確かな安全保障だ、という話もしたのでした。