唱導と和歌

牧野淳司さんの「唱導の場から生まれた和歌ー『古今和歌集』の安倍清行と小野小町の贈答をめぐってー」(明大「古代学研究所紀要」32号)を読みました。古今集恋部556・557蕃歌は、「下出雲寺で法事をした日に導師真静が言ったことを詠んで小野小町に贈った」との詞書のある安倍清行と小野小町の贈答歌です。つまり清行はその日の法事での導師の言を織り込んで小町を口説く歌を作って贈り、小町はそれに返歌をしたのです。

清行は、法華経の「以無価宝珠繋其衣裏」を踏まえ、故人を偲んで涙が止まらない、と歌い、小町は貴方の涙は未だ浅い、私は激流のように泣いています、と返したと解釈されてきましたが、牧野さんは、法事での導師の言を詠んだのだから、仏に逢えない悲しみ、愚かさを歌っていると解釈すべきだとしました。

先行研究や最近の評論を引き、広く万葉集や唱導資料を参照して述べていますが、もっと整理して分かりやすく述べることができたのではないかと思います。延々と聞き手や読者の関心を引っ張りながら述べる話法は、倣わないで欲しい。仏教用語やその思想が和歌にも食い込み、時代と共に新たな表現を生み出して行ったとの主張には同感ですが、当時の知識人の精神生活を想像すると、思考にも表現方法にも、大和言葉に漢文体と漢語・仏法思想及び仏語・歌語や本意が溶解し、それぞれ相応の局面で衝き上げてくる状態であり、彼らは違和感なくそういう混融の中で生きていたのではないでしょうか。

仏教(への憧憬)が恋愛感情と親近性を持ち、小町がその両面の象徴的存在であったことが改めて想起されます。ただこの贈答は古今集では恋部に置かれているわけで、私はふと、清行は、法事で貴女に会えると思っていたのに来ませんでしたね、と小町に軽く恨み言を言ったのではなかったかしら、と思ったりするのです。