烏帽子折説話

浜畑圭吾さんの「『源平盛衰記』烏帽子折物語の成立過程」(『言語文化の中世』 和泉書院 2018)を読みました。源平盛衰記の巻18から23までは、源頼朝が伊豆で旗挙げして鎌倉入りするまでを、詳細に追っていきます。語り本系平家物語では福原にもたらされた報告として要約されて語られる、この話群の有無が、平家物語諸本を大きく二分する特徴ですが、読み本系諸本の中でも源平盛衰記は、関東武士の動きを具体的に述べ、頼朝の政権樹立を正当化する志向が顕著です。

その巻22に「大太郎烏帽子」という章段があり、石橋合戦で敗れた頼朝が土肥実平の助力によって真鶴から、三浦一族の後を追って安房へ向けて船出する際に、大童(兜着用時は放髪になるが、敗戦で兜を捨て烏帽子がない)では一目で落人と判ってしまう、と困っていたところへ折よく大太郎という烏帽子商人が来る、という話です。その類例説話として、阿育大王が帝釈天に選ばれて即位する説話が、1字下げて(低書部)記されます。

浜畑さんは先行研究を参照した上で、盛衰記の言う、源氏代々の大将軍は左折烏帽子を被るという故事はなく、むしろ盛衰記以降の伝承が能、幸若、御伽草子などに影響したのではないかとしています。

そして巻21の聖徳太子天武天皇の類例と共に阿育大王の例は、流人の頼朝が逆転勝利を収める予言の役を果たしており、八幡大菩薩の加護への報謝と大太郎への褒賞が対になって記されていると読みます。また、挙兵話群を通して活躍する安達盛長をこの記事の中でも強調しているのは、彼に頼朝予祝の役割を負わせているというのです。

頼朝挙兵説話は果たして、原平家以来の姿をどれだけ現存しているのか、大きな課題です。なお低書部の範囲は伝本によってぶれがあり、近世以降に定まったかもしれません。