古典の未来学・その3

教育に関する議論は、静かに、訥々と、積木を積むようにやりたいーそれは未来への畏れであり異世代への礼儀でもあるから、というのが私の立場です。2019年1月以降、(殊にネット上で)騒然たる話題を提供したのは、「古典は本当に必要なのか」と題する公開シンポジウムと、それを書籍化した『古典は本当に必要なのか否定論者と議論して本気で考えてみた』(文学通信 2019)でしたが、荒木浩編『古典の未来学』(文学通信 2020)第3部にもやや敷衍して、その話題が取り上げられています。

論争の総括と展望を書いているのは飯倉洋一さん、基礎科目としての古典の必要性を説いているのは渡部泰明さんで、コラム「古典との出会い方」を中野貴文さんが書いています(第1部で平野多恵さんが書いたコラム「時をかける和歌」も、ここに関連すると言っていいでしょう)が、私が最も興味を惹かれたのは、渡辺麻里子さんの「くずし字を知ることー日本古典文学の基礎を考える」という実践報告でした。高大連携、という掛け声が流行った時期がありましたが、渡辺さんの試みは、高校生と大学教師だけでなく、高校教師や大学生も加えて、それぞれ持ち分を活かしながら、古典に近づく技術を体得していく過程を提供しています。

極端な議論、ときには罵詈讒謗に近い発言もあった(仕掛け人の「寝た子を起こす」狙いは当たったのでしょうけれども)論争が、けっきょく現在の古典の授業がわるい、という結論に落ち着いたのではむなしい。そんな終わり方をされても、大方の現場教師は当惑するだけではないでしょうか。顧みれば現在の教科書の教材選びや解説(それらの多くは大学教師が関わっている)が、どれだけ「現代人にとっての古典」を意識しているか。また総体的に、日本語学からの意見がもっと必要だったと思います。