元暦2(1185)年2月3日、範頼・義経軍は、屋島(高松市)に拠点を置く平家を追討する為に京都を出発しました。
【渡辺の津】
範頼軍は神崎の津(尼崎市)、義経軍は渡辺の津(大阪市)から、船で屋島に向かおうとしますが、激しい暴風雨に足止めされます。渡辺の津は、現在の堂島川と土佐堀川の中州にある中之島周辺で、渡辺橋が架かっています。
【逆櫓の松】
この時、梶原景時は、義経に船を自由に動かせるよう逆櫓を取り付けることを進言します。しかし、猪突猛進型の義経は、景時の意見を却下したため、激しい言い争いとなり、同士討ち寸前になります。結局、義経は暴風の中、強引に船を出して屋島に向かいますが、残った景時は、そのことを頼朝に讒訴してしまいます。
【義経・弁慶隠家跡(大物主神社)】
範頼軍が向かった神崎の近くには、大物(だいもつ)の浦があります。壇の浦合戦後、頼朝と決別した義経は、大物から西国へ向かおうとして船が難破してしまいます。この時、義経主従は、大物主神社の隣りに宿を取り、無事平安を祈ったという伝説があります。