源平の人々に出会う旅 第34回「京都市・戒文」

 寿永3年(1184)2月、一の谷合戦で多くの平家公達が討たれた中、重衡のみが生け捕られ、都大路を渡されます。人々は、南都(奈良の寺々)を焼き討ちした罰だと噂しあいます。

【西八条第跡(清盛邸)】
 重衡は、清盛・時子の愛息でした。後白河法皇は、重衡の身柄と引き換えに三種の神器を返還するよう、屋島にいる平家へ使者を送ります。しかし、平家の人々は、時子の嘆きに同情しつつもこれを拒みました。京都駅の西側、梅小路公園一帯が清盛邸の跡です。

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平重衡受戒の地】
 重衡は出家を申し出ますが許されず、法然上人との対面のみ許可されます。重衡は法然に自らの苦悩を訴え、法然から十戒を授けられます。京都駅八条西口近くの油小路沿いには、「平重衡受戒之地」碑が建っています。

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華頂山知恩院大谷寺】
 浄土宗の開祖・法然源空は、比叡山の黒谷で修行し、この頃は京都の新黒谷(金戒光明寺)に道場を開いていました。東山にある知恩院は、法然墓所に建立された浄土宗の総本山です。

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【平安の滝(八功徳水)】
 知恩院にほど近い長楽寺は、重衡の姉・建礼門院徳子のゆかりの寺です。境内には、徳子や法然の高弟・隆寛律師が修行したとされる滝があります。

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〈交通〉
 JR線京都駅
    (伊藤悦子)