英文学者の感想

和歌文学会第64回大会の講演2本について、中世英文学が御専門の多ヶ谷有子さんから、メールで感想が届きました。他分野の方の観点はたいへんためになります。お許しを得て、転載させて頂くことにしました。なお『狭衣物語』の本文研究については、片岡利博さんの『異文の愉悦―狭衣物語本文研究』(笠間書院 2013)が痛快です。

[豊島先生の「物語中の和歌の増減と表現の異同」は、本文の揺らぎの実態が見えて興味深かったです。それぞれのちょっとした言葉の違いの背後にある心性に想像力が掻き立てられました。そうしたものを言葉にするのは難しいことでしょうが・・・折々、これこそ言いたかったこと、と思える言葉を用いている文章や講演に出会いますと、大げさに言うなら、生きていてよかったと思います。豊島先生のご提示くださった「揺らぎ」を、そのような言葉でお話、または書いてくださる時機が待ち遠しいです。

平家物語の表現」のご講演は、最初から最後まで、文学研究とはこういうものだとしみじみ思いました。言葉をたくさん使わないで、絶妙に、魂の核を揺さぶる覚一本の魅力が、胃の腑に一つ一つ落ちていきました。同時に、源平盛衰記や延慶本に向かう向かい方・読み方もあるのだと思いました。

聞きながら、いくつかのことを思いました。平家物語叙事詩であるとも、そうではないとも言われますが、これが平家物語特有のカタルシスではないか、と思いました。ギリシアの悲劇・叙事詩の核がカタルシスだったように、平家物語に同質のものがあるなら、それも叙事詩といえるのではないか。ギリシア叙事詩の構成要因から外れているからと、これは叙事詩だ、いやそうではない、という議論は、ヨーロッパの作品についてもありますが、どこが重なりあうか、あわないのか、ということが重要な論点になるのだと思いました。

建礼門院の独詠歌の解釈にも心を打たれました。だいぶ以前から、建礼門院には惹かれるものがあったのですが、時折、好意的でない、というより、女を低く見て論じている説明を聞くことがあって、落ち着きませんでした。アーサー王物語について、「グィネビアの弁護」という詩を書いた詩人(ウィリアム・モリス)のように、建礼門院についても納得のいく話がききたいな、と思っています(多ヶ谷有子)]。