源平の人々に出会う旅 第20回「太宰府・玄昉」

 寿永2年(1183)5月、北陸の合戦で平家軍は惨敗します。都では、戦乱の収束後に天皇伊勢神宮行幸を行う旨の勅命が出ます。伊勢神宮行幸は、藤原広嗣の乱天平12年(740))の鎮圧の際に、聖武天皇が初めて行いました。

太宰府政庁跡】
 聖武天皇の朝廷では、橘諸兄吉備真備・玄昉らの台頭により、広嗣は大宰府に左遷されます。広嗣は肥後国松浦で反乱を起こしますが、あえない最期をとげます。

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観世音寺
 天平18年(746)、玄昉は太宰府観世音寺供養で導師を務めます。この時、黒雲が玄昉を襲い、後日、興福寺南大門に玄昉の生首が落とされたという逸話を『平家物語』は載録しています。

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【僧正玄昉の墓】
 黒雲の正体は広嗣の怨霊で、広嗣を調伏した玄昉への恨みであったとされます。玄昉は天平17年に太宰府へ左遷され、その翌年に死去したため、このような伝説が生まれたのかもしれません。

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【衣掛天満宮
 太宰府への左遷といえば菅原道真が有名ですが、『平家物語』にも「北野天神」の呼称で幾度も登場します。衣掛天満宮は、道真がここで装束を改めたという伝説があります。また、道真が自分の姿を映したという「姿見井」も近くにあります。

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〈交通〉
西鉄太宰府駅都府楼前駅
         (伊藤悦子)