桜の実の熟する時

朝、長泉寺へ山桜を見に出かけました。そろそろ実が熟する時かと思ったのです。春先の花の時季には毎朝見に行くのですが、葉桜の間は全く寄りつかず、実がなるのかどうかも知らずにいました。葉隠れに赤や黒の熟した実が点々と見えます。戦時中に若木を植えたというこの樹ももはや老木、剪定によってだんだん樹形は小さくなり、サルノコシカケが生えたりしているのですが、未だ根元に若木が生えないところを見ると、枯れる心配はしなくてもいいかなと思いつつ数粒をもぎ、持ち帰って白い薬味皿に入れて観賞することにしました。

中学生の頃、島崎藤村の『桜の実の熟する時』を読みました。すでに彼の詩集を読んでいたのと、甘いタイトルに惹かれたのですが、何だかつらい作品でした。時代背景などに無知のまま読んだので、主人公の名前と作品名のミスマッチ、青春が主題らしいが語りの声(当時は、小説を読むと語り手の声が聞こえる気がしました)は若くない、それやこれや何かしっくりしない印象で、粗筋も忘れてしまいました。

でも将来作家になるなら、藤村の『夜明け前』のような作品が書けるようでなくては、とずっと思ってきました。藤村の小説はみな重苦しく、つらいが、『夜明け前』はその時間と空間のスケールの大きさに救われているからです。滝沢修が主人公を演じたラジオドラマも説得力がありました。

さて採ってきた桜の実―小さいだけで、少々酸っぱくても食べられると思い込んでいたのですが、その苦さに跳び上がりました。酸味も僅かの甘みも、全くない。慌てて口を漱ぎ、これでは鳥も食べないだろう、何のための果肉なのか、と思いました。残りの実を鉢に埋めながら、我が家にはすでに大島桜の鉢があり、芽が出て育ったらどうしよう、と心配になりました。