コロナ下のマスク

コンビニでもスーパーでも、マスクの棚だけが綺麗に空っぽになっています。オイルショック時代のトイレットペーパー騒動を思い出しました。コンビニで訊くと、2日に1回くらいは入荷するので、当日の朝来れば入手できるとのこと。早速、マスクを製造している企業の株価は上がっているそうで、商機はどこに転がっているかわからないものですね。

我が家にも数枚の備蓄はありますが、近々文献調査に行く予定なので、これは使えない。毎日人混みに出るわけではありませんが、研究会などへ行くと咳や鼻水の症状を抱えながら出席している人たちがいて、思わず迷惑だなあという気になります。自分も若い時は少々の風邪には構わず出かけたのに、トシを取らないと分からないことがあるものだ、とつくづく思うのでした。

新型肺炎が流行る以前から、マスクを常用する人が多くなったのは時代性かなと思っていました。なるべく他人に表情を読まれたくないためか、花粉症患者が多くなったからか。その一方で、目立つ黒いマスクや花柄のもの(何だかおむつカバーに見えてしまう)をつけている人にも違和感を感じました。かつて黒いマスクは重症の患者、というイメージがあったせいでもあります。

一番嫌なのは、路上に捨てられたマスクです、痰唾と同じですから。落としたら拾って自分で始末して下さい。

昨日、立食パーティで埼玉県から来ていた人に、マスクが買えないと言ったら、うちの近所は何でもないよ、じゃこれやるよ、とぺらりと1枚、恵んでくれました。貴重な1枚、いつ使うか思案しているところです。

歌の呪力

東大中世文学研究会の第343会例会に出かけました。多田一臣さんの「歌を神に祀ること―歌の呪力について―」と題する講演です。30人弱の参加者で、普段は出て来ない顔ぶれも見られました。多田さんは上代文学が専門のように思われていますが、じつは若い頃は狂言を専攻したかったとのこと、古態を伝えているという天正狂言本によって、狂言「二千石」をまず取り上げ、歌徳説話の淵源に、和歌が持つ言葉の力、歌が対象に働きかける力への畏れがあることを論じました。話題は多岐に亘り、概ね分かりやすく、いろいろな事例が思い合わされて、関心を呼ぶ講演でした。

その後、近くのホテルで立食式の懇親会があり、久々に会った同窓の仲間と立ち話をしました。いつもはそのまま流れ解散なのですが、今回は早めに始まったので、二次会をやる時間が残り、私は若い人たちの後について、落第横町の韓国料理の店に入りました。いつも前を通り過ぎながら入れなかった店です。銀行員や県庁に勤めている、また華道の家元の息子という人もいて、2時間ほど呑んで帰りました。

京極派の和歌研究や、最近亡くなった研究者の逸話、図書館前の噴水塔を造った金具作家の話、いろいろな話題が出ました。さすがキムチは本場の味でした。

帰る道の空には三日月がやや太くなり、白梅の梢には、もう点々と花がほころび始めていました。

私的太平記研究史・後日談

ネット上で、故福田秀一さんの近代日記コレクションの整理が進行中であることを知りました。福田さんは大学院の大先輩。親切だが少々無神経なところもあって、目下の者としてはいささか距離を置きたい先輩でもありました。和歌と自照文学(日記・紀行・随筆)が専門でしたが、あらゆることに詳しくて、軍記物語の分野もよく見ておられました。平家物語享受史年表(『国語国文学研究史大成 平家物語三省堂 1960)の大業には、今でも恩恵を被っています。

晩年、『太平記』の近現代資料のコレクションを整理したいので、受け入れ先を探していると聞き、非常勤で行っていた金城学院大学の中西達治さんにお取り次ぎしました(間接的な仲介だったので、福田さんは、私が間に入ったことはご存じなかったかもしれません)。ちょうどお勤め先のICU金城学院大学は、宗派の上での繋がりがあったそうで、話は順調にまとまりました。実際に目にしたわけではありませんが、膨大なコレクションだったらしい。今も金城学院大学図書館にあるはずです。

定年後の同業者たちが悩むのは蔵書整理です。それぞれの分野の体系でパッケージにはなっているものの、現在の図書館ではむしろ邪魔者扱いされることが多く、寄贈しても喜ばれません。殊にバーコードのないものは(当人からすれば苦労して入手したものであっても)、嫌がられます。同年代が集まると、自分は蔵書処分をこうした、ああした、という話で持ちきりになります。福田さんはやっぱり偉かったんだなあ(コレクションの質もよかったし、整理する人材も育てた)と、改めて思いました。

フライパン

久しぶりの快晴、布団や洗濯物を干すことが出来て嬉しい。アナログ世代は、陽光に当てて干さないと、どうも安心出来ない気がするのです。都心のマンションなので、建設時に近隣住民から、見えるところに物を干すな、という条件をつけられた(彼らにとって何の被害があるのかしら)のだそうで、低い位置にしか干せないのですが、それでも干した後の太陽の匂いは、幸福感を呼び寄せます。

買い物にも楽しく出かけられそうです。探し歩いたフライパンは、結局、近所の雑貨屋で見つかり、代用で買ってきたソースパンはしまい込まれました。28cmからいきなり20cmに替えたので、軽いし、洗うのも簡単だし、炒め物ってこんなに楽な料理だったのか!という実感です。年を取ったら器物に合わせて生活するのでなく、体力に合わせて道具を選ぶべきなんだなと、今さらながら痛感しました。

多彩になって来た野菜売り場で、物色する対象が広がりました。テフロン加工なので、油を引かなくていいのも楽なのですが、菜の花の炒めものはどうするか、ちょっと考えました。もともとバタ炒めしてさっと醤油で味付けするだけ、さすがに油なしでは美味しくないので、醤油と一緒に少量のオリーブ油を絡ませてみたら、大成功。蕪の葉と根をざくざく切ってベーコンと炒める(味付けは塩胡椒)とか、刻んだベーコンとタラの芽を、塩胡椒と少量の酒で炒めるのも、これからの季節料理です。

悩みは、美味しい炒め物が出来ると、粥食や茶漬では我慢できないこと。麦酒にするか、熱燗かぬる燗か、とつい考えてしまうことになります。

百錬抄

松薗斉さんの論文「『百錬抄』に見える中世人の歴史認識」(「日本歴史」2020/2)を読みました。勧修寺流藤原家を始め諸家の日記・記録類からの抄出によって年代記的に構成されている『百練抄』は、欠巻があるものの安和元(968)年ー正元元(1259)年の世相を知るには貴重な史料です。

本書は、六国史が絶えた後の私撰国史という見方をされてきましたが、松薗さんは、中世の人々が知りたい「歴史」(国家行事の年代記ではなく事件的・物語的な歴史)を著そうとして作業に着手したものの形式と歴史認識の板挟みとなり、中途半端な(未完?)状態で終わってしまったものと考えています。また平安中期以来書き継がれてきた日記のなかに蓄えられたさまざまな情報が、貴族社会の外にもこぼれ落ち、流通していて、それらが軍記物語や説話集に採り込まれた時代なので、歴史書と軍記物語と説話集を区別して考える近代以降の認識は、通用しないのではないかと論じています。

我が意を得ました。注釈作業などで『百練抄』を読むと、これは記録というよりある種の歴史物語だと思うことが多いからです(『軍記物語論究』2-3京洛のいくさ語り 若草書房1996)。しかし『百練抄』には、記事の扱い方にばらつきがある。編者に迷いがあって一貫しなかった、と考えると納得がいきます。

平家物語』や『愚管抄』が成立した時期には、大規模な説話集が次々に成立しており、しかもそれらはそれぞれに、「時代」に関する自前の意識を持っていた(つまり、一種の歴史意識の上に立っていた)ように思われるのです。それが軍記物語の成立とどう交差したか―そういう問題を考えあぐねていた矢先だったので、思わず膝を打ったことでした。

武漢

武漢から始まった新しい感染症の拡散防止が大ごとになっています。人口1100万人の都市を封鎖するなんて、想像もつきません。20年位前、幼時に罹った脊椎カリエスの後遺症のために、股関節専門の整体治療士の世話になった時、これからの世界は感染症が問題になる、と言っていたことを思い出します。医療関係者の間では、そういう見通しだったのでしょう。

武漢は1940年前後に、父が会計将校として出征していた土地です。我が家には、彼が描いた風景画がたくさん残っていて、東湖や法通禅寺らしき画もあり、遠くに聳える不思議な塔があるのは黄鶴楼の名残りでしょうか。仏蘭西租界や民家も描いていますが、長江を下りながら沿岸風景を連続的に色鉛筆でスケッチした、絵巻のような小さな画帖も残っています。

ニュース映像に眼を凝らすと、新しい街に古い建築物も混じっていて、背後に広大な大陸があることが感じられます。夏の暑さは有名です。水陸両様の交通の要衝として栄えてきた所で、現在も流通業が盛んな商業都市なので、移動禁止という措置は、我々の想像以上に打撃ではないでしょうか。

亡父の描いた武漢の風景画の何枚かは、『明日へ翔ぶ』(風間書房)の口絵に載せて貰いました。この春に出る第5集にも、絵本の世界のような1枚が入っています。もっと思い出話を聞いておけばよかったと思いますが、子供は親の過去のことなど興味がないものですよね。辛うじて聞いたいくつかの体験談は、このブログにも書いておきました。

武漢のことを調べていたら、熱い茉莉花茶が飲みたくなりました。1日もはやく感染症対策が功を奏しますように。

春を待つ

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若草山の山焼き

奈良にお住まいの高木浩明さんから、写真添付のメールが来ました。

[25日の若草山の山焼きの様子を、少し離れた平城宮跡から撮影しました。山焼きの前には花火が上がり、その後に山に火が放たれます。一度では焼き足りないので、27日にもう一度焼くそうです。そうすると新しい芽が出やすくなるとのこと。山焼きが終わり、3月の東大寺のお水取りが終わると奈良に春がやってきます。](高木浩明)

沖縄県名護市の名桜大学にお勤めの小番達さんからは、桜前線スタートのメールが来ました。[沖縄の1月は暖かく、特に今日は25℃とちょっと汗ばむ陽気です(車の中ではクーラーを入れました)。沖縄本島北部では「日本一はやい桜祭り」が開催され、緋寒桜(ヒカンザクラ)が見頃となっています。この桜は本島の北から南へと順に開花してゆきます。大学構内で撮りました。](小番達)

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沖縄の緋寒桜

早咲きの桜は熱海などでも見られますが、種類が違うようです。熱海桜はすでに満開の所もあるらしい。我が家で春が近いことを告げたのは、昨日届いた確定申告用紙でした。