平家物語を繙く

清水由美子さんの『平家物語を繙く』(若草書房)という本が出ました。ここ20年間に執筆した論文をまとめた、410頁を越える1冊。第一部『平家物語』と宗教と歴史、第二部『平家物語』と東国の歴史、第三部『平家物語』と中世の女性、という構成になっています。まえがきによれば、「物語を生みだし、育てていった人々は、いったいどのような社会に生きていたのか」に興味があり、軍記文学を通して中世の宗教のありよう、女性たちのありよう、さらに社会全体の様相を明らかにしたい、そのためには一つ一つの記事や説話を丁寧に読み解いていくしかないと考えたとのこと。枝葉ばかりみつめて木を見ていないと自覚しつつも、枝葉を見ることからまず始めたそうです。

清水さんは千葉大学卒業後、高校教諭を務め、3人の息子を育て終えて、千葉大修士課程・東大の博士課程に入学、本書はその学位論文です。地方の旧家の長男の妻という大役も果たし、現在は複数の大学非常勤講師を掛け持ちし、どの役もしっかりこなしている、という体力気力十分の人。取り上げたテーマも、物怖じせず、流行に流されず、幅広い関心に基づいているので、まとまるかなと思っていましたが、こうしてみると太い心棒が通っていると感じました。

本書の惜しむらくは、誤植が多いこと。いずれも単純なケアレスミスで致命的ではないというものの、研究者はやはり、ミスには神経質であるべき職業です。例えばp392の表には、首をかしげざるを得ません。版元は内校をしなかったのでしょうか。またp321に拙論を引いていますが、やや不正確な引用です。

人文学は、還暦を過ぎてやっと視界が開けるという一面もあり、清水さんには、ここで立ち止まらずに歩き続けて欲しいと思いました。

積木的議論のために(5)

かつて原潜寄港反対や核持ち込み反対運動が行われた頃、私は未だ院生でしたが、早く結婚した幼なじみの友人は、市民運動の中で環境問題や平和運動に取り組んでいました。夫婦と食卓を囲んだ時、「学生たちの気持ちは分かるけど、過激な挑発をされると却って難しくなる」と言われたことがありました。いま思えば、同じ平和運動でも、男の子2人を持った彼女たちには、理念の問題ではなく切実さが違ったのだと思います。

あいちトリエンナーレの展示の一部停止と、再開、補助金打ち切り、と続く問題は、解決が難しくなってしまいました。展示再開は望ましいが、警察などに守られた(厳重な所持品検査や入場者チェックなどの)中では、それこそ表現の不自由を具現するようなものだし、当初の展示を変更したのでは脅迫者の思う壺に這い込むようなものだし、裁判を起こしても、現在の日本の裁判制度ではたぶん勝てないし・・・そもそも最初に企画した芸術監督は、どこまで本気でたたかう覚悟があったのでしょうか。

有名なコラムニストは、我々のチキンハートがつけこむ隙を作る、と述べ、名古屋市長が口を出したあたりから闘わねばいけなかった、と反省しています。たしかにあの頃が節目だった―しかし市井の多くの人々は、そうそうライオンハートで暮らすわけにもいきません。後日の影響の拡がりを考えれば、寝た子を起こしただけでも成功だった、とは言えないでしょう。

口火をつけるなら、ただの挑発なのか、現実の危機を呼び込んだ際にはどうするのか、よく考えて始めて欲しい。それが重大な問題であるなら、あるいは痛切な問題として直面せざるを得ない人たちの前では。

お断り:最近出た本のファンクラブのハッシュタグとは、関係はありません。

義務教育

今朝の新聞報道によれば、義務教育年齢に当たる滞日外国人の子供で、未就学者が2万人近くに上るというー目を疑いました。日本で暮らしながら基本的な教育を受けられないでいる子供たちの数が、5桁にもなっているなんて。日本はそんな国だったのか、という衝撃でした。国籍に拘わらず、日本で暮らしているなら、それ相応の教育を受けているものと、何の根拠もなく思っていました。

移民を認めるかどうかに関係なく、就学年齢の子供には教育の機会が保障されるべきです。そう思いませんか。1人の人間にとって、同じ年齢は一生に1度しかない。日本にいたために、その年齢で受けるはずの教育を受けなかったなんて、日本国の恥でしょう。日本語が分からないから学校に入れないのだとすれば、どんなかたちであれ支援体制を用意するのは、教育委員会の仕事ではないですか。

日本国憲法は国民に3つの義務があると定めています。勤労、納税、そして教育(しばしば誤解されているようですが、義務教育は、学校へ行く義務ではありません。保護する子女に教育を受けさせる義務です)。つまり日本国民ならすべて、一定の教育を受けて15歳になる。ならば同じ社会の中で暮らす人はみな、同程度もしくはそれに近い水準の教育を受けているのが望ましい。それは教育を受ける側の権利としてだけでなく、社会的コストの問題としても、です。

400年前の幕府でさえ、法治国家に必要な最小限度のリテラシーを国民に保障すべく、寺子屋を普及させました。住民登録さえしていれば、あるいは一定期間日本に滞在するのであれば、義務教育もしくはそれに準じる教育を受ける、受けられる制度を、官民共に知恵を出して整えるべきではないでしょうか。焦眉の急、として。

仙台行き

10月末の仙台行きの切符を買いに行きました。午後早く行ったのですが、みどりの窓口の行列は、6~7割が外国人でした。30分ほど並んで目的の切符を購入、駅地下のカフェでパンを買い(行きつけのパン屋が閉めてから、あちこちでパンを買ってみているのです)、珈琲とクリームパイで一服しました。窓の向こうの衣料品店は、もう秋一色です。背後ではOL風の女性客が、海外食べ歩きの経験を何でもないように話し合っている。1ドル360円、外貨持ち出し制限があった時代は、遙か昔、歴史上の過去になりました。

東京駅に来た時はいつも、紀ノ国屋で各地の地下起こし商品を物色、単調な食卓に変化をつけようとあれこれ買ってみます。山形の桜桃ジャム、秋田の洋梨ジャム、塩竃牡蛎の燻製、八戸の鰯のアヒージョ・・・最後に後輩の祝い事のために、紅白のスパークリングワインの小瓶を注文して帰りました。

帰宅したら長野の友人から、年1回の定期検診で上京、ぶじ内視鏡検査を済ませて、いま東京駅から帰るところだというメールが、来ていました。お互い知らずに、どこかですれ違ったかもしれません。

部立

古家愛斗さんの「『千載集』編纂にみる藤原俊成の神祇歌観」(日文協「日本文学」6月号)を読みました。藤原俊成が『千載和歌集』撰集に当たって、神祇部への入集基準をどのように定めていたかを考察し、俊成の神祇歌観を明らかにしようとするもの。

まず藤原清輔撰の『続詞花集』神祇部との共通歌、中でも両集で異なる部立に収められた歌を分析し、藤原定家撰『二十四代集』とも比較しています。同じ歌が『続詞花集』では神祇部に置かれているのに、『千載集』では雑の部や四季(秋)の部に入集している例を中心に考察しています。結論は、『千載集』神祇部の歌は、顕現する神威に注目し、神と作者が直接繋がる、第三者を介在させない歌であったということで、今後俊成自身の神祇詠を検討し、当時の神祇思想との関連も考えて行きたいとしています。

古家さんは10月の中世文学会では、「「『千載集』神祇部・「神遊びの歌」考」という発表を予定しているので、より広い世界へどれだけ踏み出しているか、期待したいと思います。

歌集の部立には、その撰者の思想が現れるものには違いありませんが、どこまでその意識が行き渡っているかを見極めるのはなかなか難しいことです。同じ歌が恋・四季・雑のどこに分類されているかが、家集と勅撰集で異なることはよくあり、そこには撰者の歌に対する読みと共に、編纂の事情が潜んでいることもあり得るでしょう。それもまた、歌集を読む時の楽しみだと言ってしまえばその通りですが。

風害

台風15号の影響は我が家では大したことはなかった、と思っていたのですが、今頃になって菊や日々草の一部が枯れ始め、よく見ると、根こぎにぐるぐる吹かれたらしく、茎の根元が潰れたり、根が浮き上がっていたことが判明、彼等も苦しかったんだなあと思いました。おまけに塩害なのか、菊の下葉は見苦しく枯れて行き、葉の表面に痣のようなむらができています。

さすがに夜は、虫の声が部屋まで上がってくるようになりました。友人知人から、長野の葡萄や日光の瓜漬、取手の漬物などの秋の実りが届き、我が家の仏壇は秋色で賑わっています。そろそろ栗のお菓子が出るかなと物色しているのですが、未だ早いらしい。マロンパイを買いに西片町まで行ってみましたが、アップルパイしか出ていませんでした。でもシナモンと洋酒の効いた「おとなのアップルパイ」は、やはり秋の味です。

露地植えのムスカリはもう芽が出ているので、我が家も掘り上げておいた球根を植えました。売れ残りを買ってきた矮性鶏頭の苗は、失敗したかなと思っていましたが、風に倒れず、元気に伸びてきて、茂りすぎた葉の中からやっと花穂が自己主張し始め、一安心。萎れた菊は仕方なくばさばさ剪って、小さな瓶に挿しました。初めは葉の色も悪く、不機嫌でしたが、この数日、粟粒のような蕾が頭をもたげてきました。咲くまでは茎が保たないでしょうが、取り戻せない不運は諦めて、いま出来ることからがんばろう、という彼らの姿勢に思わず共感し、毎朝水を替え、窓辺で日に当てています。

積木的議論のために(4)

「古典は必要か」もしくは「文学は必要か」というタイトルで議論するのは、不毛な気がします(ツイッターには、まるで揚げ足取りのような問答―じゃ、◯◯は必要?✕✕は?といった―が出ていて、どちらにも気の毒な気がしました)。何のために、とか、現在と未来の日本人のためには、とかいう限定をつけて土俵を設定した方がいいのではないかしら。天から降ってくる落下傘のようなタイトルで議論すること自体、無用論の思う壺に這い込むようなものだからです。

文学や古典は人間にとって必要なものです。必要でなければとっくに廃れているでしょう。では、現代日本のせせこましい高等教育のカリキュラムに押し込む理由は何か、押し込むとしたらどの程度、どんなかたちが妥当か。問題を切り分けてみせる人が欲しいと思います。中学まででは、古典というものがある、という程度しか体験させられないので、高校以降で、我々の使う言葉、風土・歴史に根ざした感覚(それらに基づいて生まれた文化)がどのように定着してきたかを、単なる知識としてでなく体験させるのではないでしょうか。それゆえ現代語訳ではいけません。以前にも書いたように、現代とは異なる言葉そのものが問題なのだからです。

円周率は約3・0と教えればいい、という指針が出て大騒ぎになったことがありました。日常生活ではなるほど、直径の約3倍が周囲の長さだと知っていれば、不自由しないかもしれません。でも3・14の先に、もっと数が続いていることは教えておいて欲しいと思います。知りたければ未だ先があるよ、ということだけは。未だ人間は、造物主のように全てを見てはいない。ならば、この世界の広さ、宇宙の遠さ、我々の足元のちっぽけさを、身にしみて知っておくべきでしょう。